機能不全家庭は何故連鎖するのか
親が、子供をひとりの人として尊重する能力が乏しい時、
その親子関係は、支配と従属の関係性になってしまいます。
健康的な親子関係は親が子供をひとりの人として尊重する事で築かれます。
親子関係に尊重が欠ける時、その親子関係は歪なものになります。
親が親としての機能を果たさない、生きづらさを作り出す機能不全家庭と呼ばれる家族形態になります。
しかし、親も子も、自分達の親子関係が支配する者、される者の関係性であるとは、思っていません。
その親子は子供が生まれた時から、当たり前に親が支配し、子供は従属する在り方です。
その親子関係しか知らなければ、子供は支配される立ち場しか知らないので、支配される事に疑問を持ちません。
では、支配する側の親はどうなのでしょうか。
その親も幼い頃、親から支配されて育った人です。
人間関係のひな型は、幼少期の親子関係によって作られます。
生まれた時から、支配と従属の関わり合いしか体験した事が無い人の人間関係のひな型は当然、支配と従属を基軸にしたものになります。
そうすると、おじいちゃん、おばあちゃんが子供をひとりの人として尊重する能力を欠く人であった場合、
おじいちゃん、おばあちゃんに育てられた親も、子供を尊重する事は無く、やがて支配する親になります。
おじいちゃん、おばあちゃんに育てられた親の兄弟姉妹である、おじさん、おばさんも、
そのおじさん、おばさんに育てられた
、いとこに至るまで、
人間関係の基軸は、尊重では無く、支配と従属です。
だから、機能不全家庭は世代間で連鎖しますし、
家系は、もろとも支配と従属の家系になりがちです。
しかし皆、結婚して親になるのです。
機能不全家庭に育っても、配偶者は健康的な家庭に育っているかも知れませんから、辻褄が合わない様に思われるかも知れません。
それでも機能不全家庭は連鎖します。
何故でしょうか。
人間関係の基軸は幼い頃の親子関係を中心とする、取り巻く環境、によって作られます。
親が子供をひとりの人として尊重したならば、その子の人間関係の基軸は尊重になります。
親が尊重する能力を欠く人であったなら、子供は支配と従属を基軸として、他者を見、コミュニケーションを取り、人間関係を構築します。
相手を尊重する事と、支配する事は、水と油です。
両者は相容れないコミュニケーションの基軸によって、人間関係を構築しますから、自ずと、親しくなる確率は低くなりますし、
仮に親しくなっても永続的、安定的な関係性になる事は、更に難しいと言えます。
尊重を知る人は、相手の事も、自分自身も尊重します。
その人にとっては、支配しようとする相手は、とても押しつけがましく、束縛する人に思えます。
支配する人は、機能不全家庭特有の自分と他者の境界が曖昧な世界が、人付き合いの原型ですから、
健康的な、尊重を基軸とした関係性が、ドライで冷たい関係に感じられます。
つまり、尊重を基軸として人間関係を構築する人は、同じく尊重をコミュニケーションの軸に据える人と親しくなり、
支配したりされたりが基本の人は、同様の人と結びつき易い、と言えます。
コミュニケーションの基軸の違いは、人種や言語や職業、貧富といった違いよりも、時に大きな隔たりとなります。
従って、機能不全家庭が連綿と続く家系に配偶者として入って来る人もまた、尊重を知らない人である確率は極めて高く、
機能不全家庭は高確率で連鎖する、と言えます。
機能不全家庭は、生きづらさ、の製造工場です。
自分を尊重する構え、つまり自尊という人格形成上欠くことが出来ない要素が、ごっそり抜け落ちた状態にさせてしまうのですから、
生きづらくなるのは必然です。
では機能不全家庭に生まれた人は、生きづらいまま生きるしか無いのでしょうか。
決してそんな事は無く、生きづらさを手放す人は沢山います。
ただ生まれた時から、尊重される健康的な環境で育った人とは異なり、
生きづらさを抱えて苦しむ期間があり、
その苦しさから、自分の心を覗き込む様になり、
生きづらさを見つけ出し、更に自分と向き合うことで、
生きづらさを手放すに至ります。
健やかな親子関係に恵まれて、健やかな心を得る人は、親の愛情溢れる眼差しに守られて、尊重を知る人に育ちます。
機能不全家庭に生まれ落ちた人は、愛情溢れる眼差しを注いでくれる人は無く、支配と従属が愛だと教えられて育ちました。
しかし、そう教えられて育ったにも関わらず、気がついた人は、
自分が愛情溢れる親になり、自分を優しい眼差しで包むことで、自分を尊び、他者を尊重する人になります。
健やかな家庭に育った人と比べると、随分手間と苦労を重ねて辿り着きますが、
これは断言出来るのですが、手間と苦労は、生きづらさを手放した時、その人に深みを与えます。
巷でよく、苦しんだ分だけ優しくなれる、などと言います。
勿論、生きづらさを抱えて生きる事の苦しみを言い表すには、軽いニュアンスの言葉だとも思いますが、
確かに、生きづらさに苦しんだ人は、
手放した時、より深い人間性に届く人が大半だと感じています。
苦しんだ前半生は長かった事と思います。
永く苦しんだ日々は、戻りませんが、
深い人間性に至ったその人の人生は、
長さよりも、深さを得る様に思うのです。
より深い喜び、
より深い優しさ、
その人は、届く、様に思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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