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軽やかに生きる人=人格者、では無い

色んな切り口、様々な表現はありますが、

生きづらさとは、湧き上がる自然な感情を味わい尽くす事が出来ない事による不全感である、と思っています。

感情を味わい尽くす、主体、は、確かな【自分】という意識、です。

生きづらい人が、そうなってしまった原因は、余程のレアケースを除いては、

幼少期に親の顔色を伺って、自分の感情を抑え込む親子関係の中で育った事、だと思っています。

その子は、自分の感情を投げ捨てて、親の感情を優先する事で生きる事が出来たのです。

つまり、その子にとっては、湧き上がって来る感情は、投げ捨てる為のもの、だという事です。

人間はどこまで行っても、感情の動物だと思うのです。

鳥が空を翔び、魚が水を泳ぎ、獣が大地を駆ける様に、人間は感じる、のだと思っています。

その感情を投げ捨てさせる事は、鳥から翼を奪う事に等しいと思うのです。

その人の育った環境は、それ程過酷なものだったと言えます。

その人から、感じる、という翼を奪った親は、翼の代わりに、道徳とか倫理とか礼節、といった様な四角四面の、いわゆる規範意識を押し付けます。

本来、感情を繰り返し親から受け容れられる事で心に、確かな【自分】という意識が育ち、

その【自分】の上に、規範意識は積み上がる仕立てになっています。

ところが、その親は子供に、感情を投げ捨てさせ、【自分】を育てる事無く、規範意識を躾けと称して押し付けます。

規範意識を押し付ける理由は、主に二つ有って、

一つは、四角四面な決まり事で子供を拘束して思い通りにコントロールする為、
もう一つは、きちんとした子供の立派な親、として世間から賞賛されたいからです。

四角四面な決まり事で子供を縛り上げれば、子供が決まり事を破った時、罰する事は容易です。

決まり事は、社会通念上、正しいのですから、それを大上段に振りかざせば、非は決まりを破った子供にあり、
罰する親は、正しい訳です。

お兄ちゃんは、妹に優しくなくてはならないのです。
いついかなる場合も、です。
決まり事は四角四面で冷たいのです。

お兄ちゃんと言えども、未だ甘えたい盛りの年齢ですが、
妹は可愛がらなくてはならない、という社会通念を厳格に適用します。

そこでは、お兄ちゃんなりの心情、事情、は意味を持ちません。

妹を愛おしいと思う気持ちと、自分だって親に甘えたいという気持ちに板挟みになっているお兄ちゃんの思いは汲み取られる事が無く、
有無を言わせず罰せられます。

正しいか正しく無いか、で言うと、罰した親は正しい立場に在りますが、其処には、温かさが欠けています。

お兄ちゃんにとっては、その親子関係、家庭環境は、正しいけれど冷たい場所です。

温かさに包まれる場所では無く、裁き裁かれる四角四面の法廷の様な場所です。


子供に温かさを与える事に興味が無い親は十中八九、世間体を過度に気にします。

だから、子供を四角四面の決まり事で縛り、きちんとした子供像にはめ込みます。

子供が決まり事を守れば、きちんとした子供の立派な親、で居られます。
子供が決まり事を破れば、四角四面の決まり事を振りかざして叱るなら、傍目には、決まり事を守らない子供に、きちんとした事を教える親、に見えます。

最終的に、世間に見て欲しいのは、立派な親である自分、であって、子供の事を見て欲しい訳では無いので、子供が決まりを守らなくても正しい理屈で罰すれば、その親は良いのです。

子供は親の道具であり、親子関係は裁き裁かれる冷たい関係性であり、其処に温かさはありません。


感情を投げ捨てざるを得ない環境に育った子は、心に自分が育つ前に規範意識を押し付けられ、きちんとした子供の型にはめられ、子供らしい子供時代が無いままに成長します。

成長するのは身体であって、心は幼児のまま、成長の歩みを停めてしまいます。

感情は味わい尽くして初めて燃焼する事ができる仕組みになっています。

投げ捨てた感情は、味わい尽くされる事無く不完全燃焼のすすの塊になり心の奥の方に転がっています。


生きづらさを手放して、軽やかに人生を歩みたい、と願い、自分と向き合い始めた人で、心清らかな人、博愛の人、善人、人格者、といった者になろうとする場合は少なくありません。

自分と向き合い、心のことを考えるうちに、こんな心でありたい、清らかで、博愛の、善を成す人でありたい、と思うのは無理からぬ事ではありますが、

それでは、かつて親からきちんとした子供の型にはめ込まれた様に、

今また、人格者の型に自らを押し込む事をしています。

かつて親から感情を捨てる事を強要されたのと同じく、自ら感情を放り投げようとしています。


先に触れた様に、感情は味わい尽くす事でしか燃焼される事はありません。

生きづらさを手放そうとする人が向くべき方向は、

博愛で、善を成す人格者、になろうとする事では無く、

湧き上がる感情を感じ尽くす事、です。

勿論、怒りが湧き上がった時に、いつでも、どこでも怒りに任せて行動する事は出来ませんが、

心の中だけは、湧き上がる感情をすくい上げ感じ尽くす事が出来る、自由な場所、なのです。

心の中の事を罰せられる在り方がどれ程間違っていたか、を理解し、

心を自由な場所に戻す事が、

生きづらさを手放す人が向くべき方向だと思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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