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初めて譲らない時

物心ついた頃には、追われていました。

賢くあれ、
優しくあれ、
強くあれ、
明るくあれ、
親から、その場その時で最高の子供であることを求められました。

その反面、
親より劣った存在であれ、
とも求められました。

たとえば、
テストで50点を取ったなら、頭が悪い、と責められます。

90点を取ったなら、何故10点も間違ったのか、と責められます。

晴れて100点を取ったとしても、こんな簡単なテストに100点の価値は無い、と切り捨てられます。

つまり、賢く無くても、賢くても、何がどう転んでも責められるのです。

どう転んでも責められるのなら、開き直って無理をせず、友達から誘われれば、遊びに行けば良い、と今は思います。

しかし、物心ついてからずっと親は絶対と聞かされて育ったのです。

親の気持ちを先回りして汲み取る習性が出来上がってます。

100点を取ったら取ったで、親は面白く無いのですが、それまでは、とにかく120%の力で頑張るしか無いのです。

なぜなら、賢くあれ、と求められているからです。

報われようが、報われまいが、その時親が賢くあれ、と望めばそれを察して、やるしか無いのです。

親の心は、無価値感によって真っ二つに裂けています。

対外的には優れた子供であることを求めます。
優れた子の親、と思われたいからです。

家庭内では、価値の無い子供であることを求めます。
優れた子だと、自分の無価値感が疼くからです。

機能不全家庭の隠された最重要事項は、親が抱える重大な無価値感から目を逸らすこと、です。

親の心は、裂けています。
世間から認められたい、と思う反面、自分より劣った存在を求めます。

その矛盾した親の心情が、機能不全家庭の憲法なのです。

そんな環境で育つのですから、
優れた子供であることと、
劣った子供であることを、常に同時に求められ、子供の心も引き裂かれます。

子供は親の矛盾、機能不全家庭の嘘を全部背負い込むのです。

親はそうすることで、生き延びます。

子供は生きづらい人になります。

子供は様々な矛盾を抱え、葛藤する人になります。

たとえば、自分は優れている、という思いと、
自分は劣っている、という思いが、
心の中に同居する人になったりします。

他人の、お世辞で舞い上がり、批難されると極端に打ち拉がれる様な人になりがちです。

常に優れることと、劣ることを同時に求められ続け、

その矛盾した要求に応えようとして生きたのですから、心の中に相反する自己像が同居するのは、必然とも言えます。

親の矛盾する要求を、心を割くことで叶えてあげているのです。

親の生きづらさ、親の無価値感をそっくり背負った状態です。


今、生きづらさを抱え苦しむ人は、幼い日、親を精神の崩壊から救った人です。

大袈裟な話しはしていません。
親はそれ程、重大な無価値感を抱えていました。

重大で無ければ、虐待には及びません。

親の重大な危機を身を挺して救ったのは、その人です。

だから、その人は、最大級の親孝行を既に済ませています。


親の重たい荷物を背負って生きて、今、生きづらさに気がついたなら、

生まれて初めて「自分」を優先させて良い、時です。

「親には親の事情があって、仕方が無かった」

生きづらさに気がついた人が、よく口にする台詞です。

その台詞を吐き、また親を優先しようとします。

また、譲ろうとします。


如何なる事情が有ろうとも、幼い子供には100%非はありません。

犯人を探して断罪せよ、と言っているのではありません。

機能不全家庭の憲法は、親の無価値感から目を逸らすこと、です。

真実から目を逸らすことです。

生きづらさに気がついて、重い荷物を降ろしたい、と願った今、

真実を真実として認める時を迎えたのです。

断罪する必要はありません。

しかし、譲ってはならないのです。

背負わされた荷物は降ろせます。

最大級の親孝行は済みました。

生まれて初めて自分を優先することが、

自分の人生を取り戻すことなのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム







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