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許すこと、憎むこと

生きづらさに気がついて、生きづらさを手放すことを決意した人が、迷い込む場所があります。

その迷い込んだ場所に、随分長い年月居続ける人は少なくありません。

場合によっては、その場所に生涯、安住してしまう人も在ります。

人の生き方に、善悪、正誤、優劣はありません。
その場所に長く居続けるのも、安住するのも、更には生きづらさを手放すも手放さないのも、その人の自由です。

ただ、生きづらさを手放す決意を固めたにも関わらず、
迷い込み、その場所に居続けることが、
その人にとって本意では無いのであれば、
その場所から出るヒントになりはしないか、という想いでお話しします。


迷い込む場所は、二箇所あります。

一つは「親を許す」場所、
もう一つは「親を憎む」場所です。


親を許す場所に迷い込んだ人は、物分かり良く、かつて自分を否定し、拒絶し、利用した親を、
「確かに親は自分を虐待したが、親も苦しんだし、愛し方を知らなかっただけで、自分を愛していた、だから、仕方が無かった」
と、許そうとします。

しかし、生きづらさを手放すならば、向き合うのは、自分、です。
親の事情や心情などの背景を見つめ理解することを求めるものではありません。

幼い日、本来愛して守ってくれる筈の存在から、貶められ利用された、自分の感情はどんなものだったのか、どれ程の絶望を感じ、どれ程深く傷ついたのか、を拾い上げ、感じ尽くすことが、自分と向き合うこと、だと考えます。

親を許すことには、そうすることで、優しい自分、で在り続けられる、というメリットがあります。

親から愛されなかった、という真実を否認してこれまでと変わらず、愛された、というファンタジーの世界に生きる事が出来るのです。

つまり、愛されなかった事実を認めるか、愛されたというファンタジーの世界に生きるのか、を択ぶ事が、

生きづらさの中に生きるか、生きづらさを手放すか、を択ぶ事なのです。


親を憎む場所に迷い込んだ人は、
「こんなに苦しむ自分をどうしてくれるんだ!こうなったのはお前のせいだ!」
と、外に自分の生きづらさを創り出した犯人を探し、断罪します。

けれども、生きづらさを手放すならば、向き合うべきは、自分、です。

生きづらさの原因が親であっても、断罪したところで、生きづらさを手放すことは叶いません。

親を憎むことで得られるメリットが有ります。

親を全力で責めている限り、自分と向き合い、心の傷が放つ痛みを感じることを回避することが出来ます。

つまり、痛みを受け容れて、自分として生きるか、痛みを回避して親を責めるか、を択ぶことが、

生きづらさを背負って生きるか、生きづらさを手放すか、の選択、ということです。


親を許す、という事は、かつて自分を捨てて親を生かした原体験を、今再び繰り返すことであり、

言ってみれば、再び自分を犠牲にする事と引き換えに、自分と向き合うことを回避している、と言うことが出来ます。

親を憎む、という事は、外に親という犯人を見つけ、責めたてる事で自分と向き合うことから目を逸らしています。


生きづらさを手放そうと決意したなら、自分と向き合うこと無しに、目的に達する事はありません。

自分と向き合う時、親を許すことと、憎むことの狭間に立って、揺れに揺れます。

揺れながら、それでも自分と向き合い、親子関係すらも、今尊い気づきに向かう自分を形造る、出来事、であったと受け容れた時、

生きづらさを手放す事が出来るのだと思っています。


生きづらさを手放す、手放さない、
親を許す、許さない、
親を憎む、憎まない、

どう選択するのも、自由です。

但し、生きづらさを手放す、という選択をしたのであれば、

許しの場所も、憎しみの場所も、安住の地、ではありません。

許しと憎しみの狭間に揺れても、

自分と向き合うことに、戻らない限りは、生きづらさを手放すことは叶いません。



生きづらさを手放す、ということは、

望む人生を、自分として、

軽やかな心で歩む、ということです。

だから、

向き合うべきは、

親では無く、

あくまでも、自分、です。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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