優しさと弱さの境界線、そして弱さはズルさでもある、ということ
一方が犠牲になる事で、相手との関係性が保たれているならば、
そこにあるのは、優しさでは無く、弱さだと思っています。
犠牲という言葉が強すぎるなら、譲ること、と言っても良いと思います。
結論から申し上げますと、
優しさと弱さの境界線は、
犠牲になるか否か、だと思っています。
そして、弱さは得てして、ズルさ、でもあるのです。
人間関係の基本は、互いに尊重する事、だと考えます。
相手を尊重する時、初めて自分と他人は心理的に切り分けられます。
自分と他人の感情を分ける心理的境界線が明確になる、という事と、
他者を尊重する、という事は同義です。
尊重するから、心理的境界線が明確に引かれるし、
心理的境界線が明確になるから、相手を一人の人として尊重出来るのです。
逆に言うと、尊重する事の無い関係性では、心理的境界線は曖昧であり、
自分と他者の感情が一緒くたになっている、という事です。
一心同体、と言うと、何だか聞こえがいいですが、
自他の感情が混ざり合ってしまう関係性は、恩着せがましく、押し付けがましく、恨みがましくなってしまいます。
自他の感情が混ざり合う関係性に身を置く人は、次の様な思いに取り憑かれます。
「あなたの為を思って、こんなにやってあげてるのに、どうして解ってくれないんだ!」
この一文に、恩着せがましさ、押し付けがましさ、恨みがましさが全部入っています。
そして、この一文の様な思いが、ぶつかり合う関係性に於いては、
強い方が、保護の体を取って、支配、し、
弱い方は、従順の体で、迎合、するカタチに落ち着きます。
保護や従順の、体、を取っている時点で、本心を隠す、嘘、や、偽り、が、入り込んだ関係です。
言わば本心を隠した、取り引き、の様な関係性が、
自他の感情が混ざり合う関係性の本質です。
どうして、取り引きの様な関係性になってしまうのか、と言うと、
相手を一人の人として尊重していないからです。
相手を人として尊重しない、ということは、
お互いが相対しながら、双方ともに、極めて独りよがりな世界に其々生きているから、です。
独りよがりな世界に生きながら、一人では生きられないので、
取り繕う必要に迫られ、保護するフリをしながら支配し、
従順を装いながら、迎合します。
支配と迎合がその関係性の背骨であり、
支配と迎合の関係性は、共依存と呼ばれる関係性です。
その関係性に於ける、支配する側は、ズルい、のです。
保護するフリをして、本当は支配しているのですから、ズルいのです。
しかし、従順を装いながら迎合する方は、支配されるから、可哀想なばかりか、と言うと、そうとばかりは言えず、
自分が犠牲を払う代わりに、保護、を求めています。
譲るから守って下さい、ということです。
どこまで行っても、取り引き、の関係性なのです。
そして、その取り引きは、詐欺の様なもので、犠牲になっても譲っても、保護はフリだけであって、守られる事はありません。
犠牲になっても、守られないのですから、その意味では可哀想ですが、
動機は保護を求めての、従順の体、ですから、純粋とは言い難いのです。
その様な関係性の代表例が、機能不全家庭に於ける親子関係です。
親子という絶対的に親優位に偏った力関係ですから、
支配する側が親で、迎合するのが子供です。
述べた様であるなら、迎合する幼い子供は、弱くてズルいのか、というと、そうではありません。
幼い子供は、徹底的に無力な存在です。
その無力な存在に唯一備わっている能力は、親を慕う能力、です。
幼い子供は、その唯一備わった能力をフルに使って親を慕います。
幼い子供は親を慕う事で生きる仕組みになっています。
幼少期は弱い子供が、強い親を慕って慕って、慕い尽くす事で生きる仕立てになっている特別な季節です。
ですから、幼少期に起きた親子間の出来事は、子供には一切、責任も原因もありません。
幼少期の子供は弱い存在であり、ズルい事は少しもありません。
親が支配する人であったなら、其処に生まれ落ちた子供は、たちまちのうちに、親の人生に取り込まれて、迎合して生きる事になります。
ズルさ、が生まれるのは、ずっと後です。
親の人生に取り込まれて迎合して生きざるを得なかった人は、生きづらさを抱えます。
生まれた時には、親の人生に取り込まれて、支配と迎合の中で生きて来たのです。
支配される事も、迎合する事も、それが当たり前で、その生き方しか知らないのですから、
自分が生きづらい、という事に気がつく事は容易ではありません。
生きづらさを抱えて生きる苦しみは実に大きく、苦しみが大きいが故に、抱える生きづらさに気がついて、生きづらさを手放そうと思う人が居ます。
生きづらさを手放す為に、自分と向き合い始めます。
その時に、辻褄を合わせる方向に迷い込む人は少なくありません。
この辻褄を合わせる事にズルさがあります。
親の人生に取り込まれて生きざるを得なかったその人が、生きづらさを手放そうと思うなら、
親の支配の中で、親の感情を優先する為に投げ捨てた、自分の未消化の感情を拾い上げて感じ尽くさなくては、感情は消化されません。
泣きたくても親の顔色を伺い、親が笑う事を望んでいると察知したら、笑ってみせる幼少期だったのです。
泣きたい気持ちや、泣く事を取り上げられた怒りは、心の奥に閉じ込めたっきり、未消化のままになっています。
生きづらさに気がついた今、その人がすべき事は、閉じ込めた幼い頃の未消化の感情を感じ尽くす事です。
あの時、親も苦しんでいた、だから仕方が無かった、
と物分かりよく、親を許す、という落とし所に落ち着く人は少なくありません。
そうすれば親は、苦しむ可哀想な人、になります。
可哀想な親を、仕方が無かった、と許せば、自分は親を許した優しい、子供、で居られます。
親が可哀想な人で、自分が優しい子供、になれば、丸く収まり、親も自分も痛みを感じずに済みます。
その時に、痛みに貫かれるのは、幼い日の自分、です。
親と自分が痛まないで済む落とし所に落ち着く時、犠牲になるのは、かつて親の犠牲になり支配され続けた、幼い日の自分、です。
生きづらさの正体は、かつて心の奥に投げ捨てた、未消化の感情です。
生きづらさに気がつきながら、落とし所に落ち着いて、幼い日の自分を犠牲にする事を選ぶ人は沢山居ます。
生き方に、善悪、正誤、優劣は無く、幼い日の自分を犠牲にする生き方を選択するのも自由です。
しかし、生きづらさを手放そうと思うのならば、幼い日の自分を使って、親と自分が痛む事を回避しようとする、自分の弱さ、ズルさを認めなくてはなりません。
親は仕方がなかった、という落とし所に収まれば、痛む事無く、
これまで通り、親の人生の中で優しい、子供、として生きます。
自分の弱さ、ズルさを認めたら、痛みを感じます。
痛みが過ぎたら、自分として、自分の人生を歩みます。
どう生きるかを決めるのは、
自分自身です。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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