幼い日、能動的である事を求められた人は、受動的な大人になる

心に葛藤が無く、愛情豊かな両親の元に生まれた人は、自分の存在に対する安心感を持ちます。

安心感を求める、などという事は無く、愛情豊かな親から肯定的に扱われ、存在を当たり前の様に尊重される環境に育つ中で、ごく自然に、

自分という存在は価値が有る、
自分は尊重されるに値する、

といった感覚を身につけます。

その感覚が、自分の存在に対する安心感です。

その安心感は、人生を歩む上での基礎とも言える大切な感覚です。

自分という存在に、疑念や、わだかまりが無い為に、
純粋な興味、関心、好奇心に沿って、目の前の物事に積極的、能動的に取り組む事が出来る様になります。

積極的、能動的な姿勢は、多くの経験をもたらします。

成功の経験は、自分には価値が有る、という感覚を強化します。

たとえ失敗を経験しても、自分には価値が有る、という安心感が有るので、その失敗に学びます。

成功しても失敗しても、自分の存在に対する安心感が有る限り、経験は積み上がり、人生は豊かなものになって行きます。

人生の最初に、愛情豊かな両親に、守られ、抱かれ、与えられる、究極に受動的な時期を過ごす事で、逆に極めて能動的な生きる姿勢を得る事になります。


心に重大な葛藤を抱えた親の元で生まれ育つ人もいます。
その人は、自分には価値が無い、という思い込みを、心にべったりと貼り付けてしまいます。

自分の存在を否定的に扱われ、尊重される事は無く、親が葛藤から目を逸らす為の道具にされます。

本来親が与え、子が受け取る、その時期に子供が親に与え続けます。

泣きたくても親が望めば笑い、怒りたくても親が望めば、おどけて見せます。

子供が親を見て、親の感情を汲み取って、親の望む通りに動きます。

本来守られ、抱かれ、与えられるべき、その時期に、です。

受動的である事は許されず、子供が能動的に、親を見て、考察して、判断して、行動します。

この関係性は外から見てもわかりません。
わかりませんが、親は子に、「お前は私をどうしてくれるんだ」と圧をかけ、子供は親の満足を探し、与え続けます。

この与える側と受け取る側が逆転した親子関係を過ごした子供は、

自分の存在に対する安心感が持てる筈も無く、
有るのは、自分には価値が無い、という感覚、無価値感です。

やがて、その子は無価値感から目を背ける為だけの人生を歩み始めます。

心は無価値感でいっぱいです。
だから、他人の賞賛が必要です。
周囲の眼が気になります。

取り組む事に、興味も、関心も持てず、純粋な好奇心も有りません。

有るのは、内心の無価値感を抑え込む為の成功に対する渇望です。

自分には価値が無いと思い込んでいるので、どうしても結果を出さなくてはなりません。

失敗したら、自分は無価値である、という思い込みを証明する事になってしまいます。

失敗は許されないのです。

何をするにも、無価値感に追い立てられます。

そんなプレッシャーに晒され続けて生きるうち、その人は目の前の物事に取り組む事が嫌になります。
挑戦を回避する様になります。

幼い日に、親子が逆転し、与える立場に立たされ、能動的に与え続けた結果、

その人は、消極的な生きる姿勢を取る様になります。

そもそも、自分の興味や関心、好奇心を持てず、周りの評価が自分の存在価値の証しである時点で、極めて受動的な構えです。

時に、好奇心の塊であるかの様なフリをする場合もありますが、それは自分の受動的、消極的な姿を覆い隠す反動形成です。


愛された人は巣立つ時、親離れがさっぱりしてます。

愛情不足の人は、仮に物理的、経済的に自立しても、精神的には親離れが不完全な場合が多く見られます。


心のことは、逆説的な事が多くあります。

求めれば得られず、求めることを止めた時、叶う事は多くあります。

心のことは、逆が多い、と感じます。


本来、守られ、抱かれ、与えられて然るべき、幼少期という特別な季節に、

能動的に親に与える事を余儀なくされた人が、

結果、受動的な心の構えになってしまう事は、

とても皮肉な事だと思います。


受動的な心の構えになってしまうには、述べた様に相応の訳があります。

辿れば、自分は無価値だという、言われ無き思い込みに行き着きます。

思い込みは、払う事が出来るのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム

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