過去にとらわれず今を生きよ、と言うけれど
私がnoteに投稿している記事は、生きづらさを抱えている方々に読んで頂きたい、と思って書いています。
何故、今またそんな、おことわりを述べているのか、と言うと、
生きづらさを抱える人と、そうでない人の、悩み、苦しみ、は明らかに違っている、と考えているからです。
心は一人ひとり違っていて、十人いたら十通りの心があり、百人いれば百通りです。
投稿する記事は、読んで頂く方一人ひとりに完全に当てはまる物では無いのは当然ですが、
だからこそ、大枠ですが、生きづらさを抱える人に向けて、という枠組みで記事を書いています。
スマホひとつで、知りたい事を知りたい時に、知る事が出来る便利な世の中です。
情報の入手が容易であるからこそ、どの情報が自分にとって必要で、どの情報が要らないのか、を取捨選択する事の重要性は極めて高い、と思うのです。
心のこと、に関する情報も例に漏れず、ある人にとっては薬になる情報でも、別の人にとっては毒になる事もあります。
先だって、YouTubeのお薦めに上がった動画で、
著名な精神科医の方が、
「過去に執らわれても何も生み出さないのだから、今を生きるしか無い」
といった意味のことを繰り返し仰っていました。
広く一般に向けては、全くその通りだと思うのですが、
その動画を視聴する人が、生きづらさを抱えている人、だと、全く当てはまらないのです。
何故なら、生きづらさの最中に在る人は、今、を生きることが出来ないから、生きづらい、のです。
今を生きられなくて苦しんでいる人に、今を生きなさい、と求める事は、
泳げない人に、「向こう岸まで泳げばいいんだよ」と言う事と同じです。
なんて事無いよ、という調子で、言われたその時は、泳げない人も、大した事では無い、と思えて、
背中を押された様な気になるかも知れませんが、
すぐに、自分が泳げない事に気がつき、泳げない自分を責める事になります。
他人にとっては取るに足りない事なのに、自分は泳げない、向こう岸に渡る事など出来ない、自分はダメな奴だ、
と、自分を責めます。
今を生きる、ということを分解してみるなら、
出来事、が起こり、その出来事に、意味付け、をします。
起きた出来事に意味付けを施す事で、感情が湧き上がります。
湧き上がった感情を味わい尽くします。
それが、今を生きる、という事だと思っています。
つまり、今を生きる、とは、湧き上がった感情を余すこと無く味わい尽くすこと、だと思うのです。
たとえば、休日の朝、大粒の雨が窓を叩く音で目を覚ました、とします。
それが、出来事、です。
その出来事に、意味付け、をします。
意味付け、とは、解釈、です。
大雨という出来事に、「まいったな、この雨じゃ何にもやる気にならないな」とネガティブな意味付けを施して、スッキリしない感情で、寝床でゴロゴロして過ごす、という行動を選択するか、
「部屋が散らかっているから、片付けついでに模様替えでもして、終わったらサッパリした部屋で美味いコーヒーでも淹れるか」とポジティブな意味付けをして、楽しい感情で、部屋を片付ける、という行動を選ぶか、は、
その人の自由です。
ポジティブが良くて、ネガティブが悪い、という事では無く、
どんな今、を選び、どんな今、を生きるかは、当人の自由です。
大切なのは、心が自由なエリアであり、出来事にどんな意味付けをするか、どんな感情を味わうか、は本人の自由である事、です。
心が自由なエリアである事が、今を生きる、為の条件です。
生きづらい人は、ほとんどの場合、幼少期に、心が自由なエリア、では無かった筈です。
出来事が起きた時、親が望む意味付けをする必要があったのです。
親が望む意味付けをする、という事は、親が望む感情を生み出し、親が望む言動を取る、と言う事です。
幼少期にそういった育ち方をした人は、意味付けや、感情の発露が、本人の自由にはならなくなってしまいます。
幼い頃に、親が望む今、を生きた人は、
後に、他者が望む今、を生きる様になってしまいます。
だから、生きづらい人は、今、を生きようにも生きられないのです。
YouTubeの精神科医の方は、生きづらい人に向けて喋ったのでは無く、
もっと広く一般に向けた内容なのだと思いますが、
生きづらい人が、動画を見て、背中を押された様に感じて、
過去を切り捨てる様にして、今を生きようとしたならば、
おそらく出口は遠退く様に思います。
心のこと、の情報はいくらでも手軽に手に入りますが、
その情報が自分にとって、
薬になるか、毒になるのかを、
見極める事は、とても重要だと思っています。
読んで頂いてありがとうございます。感謝致します。
伴走者ノゾム
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