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わりと気に入った自分で生きる 選択は自由     


もしも望むならば


もしも、生きづらさから解放されたい、と望むのなら、自分と向き合うことが必要になってきます。

「もしも、〜望むのなら」と前置きするのは、生きづらさ に苦しむ人は、苦しんでいるにも関わらず、その状況に在ることを選んでいる側面が有るからです。

生きづらさの原因は、その殆どが幼少期に負った心の傷にあります。

なぜ、その時、幼い心は傷ついてしまったのでしょうか。

幼く、柔らかくて真っ白な心にとって、耐え難い出来事が起こったのです。

余りにも耐え難い衝撃だったから、心は傷ついたのです。

望まない出来事が起こっても、耐えられる範囲の出来事ならば、起こったその時に正面から対峙することによって心は傷つきませんが、

余りにも耐え難い衝撃は、即ち生命の危機です。
正面から対峙しては、幼く柔らかい心は大きな痛手を負います。

幼い心は緊急の処置として、耐え難い出来事を一旦受け流します。

本来ならば、出来事が起り、その出来事を受け止めることで湧き出した感情を味わい、外に表現すれば心は傷つきません。

しかし、
耐え難い出来事を受け流すと、湧き出した感情は行き場を失くし、滞ってしまいます。

滞った感情は重々しい不全感となり、やがて生きづらさに変わります。

湧き出した感情を未消化のまま、心の内に滞らせることによって生きづらさが生まれます。

生きづらさには、耐えられない辛い体験を覆い隠すはたらきが有ります。

つまり、生きづらさを感じている限り、心の傷を見なくて済むのです。

生きづらさを選ぶなら、見たくない心の傷は見なくて済みます。

生きづらさから解放されたいと願うなら、心の傷と対峙することとなります。

どちらを選ぶのも自由なのです。

自由な選択に善悪、正誤、優劣はありません。


例えば私の場合


私ノゾムは機能不全家庭に育って、随分長い間、生きづらさを選択して生きました。

勿論、生きづらさを選択し続けているとは思っておらず、オートマチックにネガティブな感情を選んでいる状態でした。

心は重く、何かが胸の奥につっかかった様な心持ちで歩きました。

その頃があって、今があります。

その頃と今を分かつのは、
生きづらさを手放す決断をして、心の傷と対峙した日、です。

生きづらさを選んで、心の傷を見ない様にしていた時期があり、
心の傷と対峙して、生きづらさを手放した今があるので、

そのどちらをも、体感した上での、違いについて少しお話しさせて下さい。

私が生きづらさを手放すことが出来たのは、

たまたま全てを失う底打ち体験をして、生きづらさに気づくことが出来、

たまたまテープ式心理学と出会い、手放す決断が出来たからです。

ただ、その「たまたま」に巡り会えたのは、自分がその重々しい感覚を本気でかなぐり捨てたいと願ったから、なのかも知れません。


物心ついた頃には、親の顔色を覗っていました。
その在り方は大人になってからも変わることは無く、覗うのが親の顔色の代わりに、周囲の人の反応やその場の空気。
心の中に、確固たる「自分」という意識が無く、

只々どういう態度で臨めば相対する人に優位に立てるか、好かれるか、

どう立ち居振る舞えば、この場で認められるか、好感を持たれるか、

そういったことで頭はいっぱいで、自分の感情には無頓着でした。

今は、作った自分で相対する人に優位に立とうが、その場で認められようが、周囲から好かれようが、
作った自分は、嘘であり、偽物に過ぎず、何の意味も無いと感じています。

これは、生きづらさを手放すことで、確固たる「自分」という意識が出て来たことによるものだと考察しています。

これまでの自分が安定した人間関係を築き難かったのは、此処に原因があると思います。

勿論、そうしたくて、していた訳では無く、「自分」が無いということは、相手の言動から、その場の空気から、察知して自分を決めなくてはならないので、致し方無かった訳です。

これまでは、自分を愛そうにも、自分を信じようにも、その「自分」が無かったので、
自愛も自信も無かったのです。

今は自分を大切に出来ますし、自分に無価値感が無くなった分だけ、有価値を感じ、何者かを演じなくとも、素の自分で良いと感じています。

場合によって嫌われても、軽く扱われても、自分では無い何者かになりすまそうとは、思わなくなった様です。


機能不全家庭に育つと、自分と他人を分ける感情の境界線が曖昧になります。

自分を尊重されることが無く、感情の発露までを養育者が干渉するので無理からぬことです。

私ノゾムは、感情の境界線が曖昧なことで、他人の心に平気で踏み込んだり、逆に自分の内側まで、他人が干渉するのを許したりと、人間関係の距離が測れず、自分が苦労しましたし、周囲に迷惑を掛けた自覚があります。

ただでも無価値感にまみれて不安定なのに、他人との距離が測れないことは、生きづらさの極みでした。

近づき過ぎて、嫌い嫌われ、離れ過ぎて寂しさに囚われ、それでも幼い時に得ることが出来なかった愛情を誰彼構わず、見境なく求める欲求に振り回されました。

愛情や友情を求めながらも人が信じられず、試すようなことをしていました。

そんな近づいては突き放すようなことをしては、長く安定した人間関係は作れません。

今は、随分他人との距離が判ります。
これは、測ろうとして判るのではなく、自然に判る感覚です。

心の内に自分が現れると、他人も現れます。

自分のことが、私はコレです、と思える様になると同時に、あなたはコレですね、と自分の輪郭と相手の輪郭がクッキリと見えて来ました。


選択は自由


簡単に、それまで と そのあとをお話しさせて頂きました。

変化は多岐に渡り、ほんの少ししかお伝え出来ませんが、
全てが違うといった感覚です。

生きづらさを選択して、心の傷を見ないで生きるのも、
心の傷を見て、生きづらさを手放すのも、そこに善悪、正誤、優劣は無く、選ぶのは自由です。

私は手放すことを選択して良かったと心から思っています。

気持ちが軽く、物事や人々の良い部分を探そうとする様になり、

そんな心持ちの自分を好きになることが出来ます。

生きづらさを手放すことが出来たと思っています。

しかし、生きづらさの残骸の様な欠片は小さいですが、心に残っています。

時折、生きづらさの欠片がネガティブな感情を生み出しますが、それまで の様に飲み込まれる事は無く、コントロール出来る様に思います。

生きづらさの欠片は、私の個性なのだと思っています。

ポジティブな感情もネガティブな感情も、良い、悪いはなくて、選択するのは自由です。

この先、わりと気に入った自分で生きられることを嬉しく思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム




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