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望む人生を歩む権利

生きづらさを抱えている人、や
生きづらさを手放した人、が、

今の自分の状態をどの様に捉えるのか、には大雑把に言って、三つの段階に分ける事が出来る、と思っています。

あんな事があった「せいで」私はこうなってしまった、

あんな事があった「にもかかわらず」こうなった、

あんな事があった「からこそ」こうなれた、

「せいで」「にもかかわらず」「からこそ」という三つの、感じ方、心境、です。


生きづらさを抱えた人には、過酷な幼少期の親子関係があります。

心には、あまりにも過酷な事実を、隠す事によって、心を守る、自己防衛機能があります。

慕って止まない本来受け容れてくれる筈の親から、貶められ利用される事は、幼い子供にとっては、耐え難い出来事です。

白く柔らかな幼い心は、その耐え難い出来事を隠す事で、壊れてしまうことを回避します。

虐待された子供が、自分は人並み以上に愛された、と信じ込んでいる事が多いのは、
心が壊れる事を回避する為に、あまりにも耐え難い出来事を隠したからです。

時にそれは幼少期の記憶の欠損になります。
耐え難い出来事が記憶から零れ落ちた様に抜け落ちます。
記憶が飛び飛び、ぶつ切りになる事もあれば、
幼少期の記憶のほとんどがごっそり欠け落ちる事もあります。

幼い子供にとって、親から貶められるという事は、それ程受け容れ難い出来事と言えます。

生きづらさに気がついて、生きづらさを手放そうと決意した人は、

自分と向き合い、受け容れ難い、見たくない過去の出来事を辿ります。

当然、あんな幼少期があった「せいで」、あんな親の下に生まれた「せいで」自分はこんなにも生きづらくなってしまった、と感じます。

生きづらさに気がついて、自分と向き合う直前に、「せいで」の心境に捕まって、長くその心境のままの人も少なくありません。

その心境に安住し、親を責める事や、本来親にぶつけるべき怒りを他者に向けて八つ当たり的にぶつける人も在り、
更には生涯を、親や他者に怒りをぶつける事に費やす人すら居ます。

「せいで」の心境を脱する事のハードルは低くはありませんが、

それでも勇気を持って自分と向き合った人は、自然と「にもかかわらず」の心境に移行します。

おそらくは、耐え難い幼少期を見据え、受け容れ難い出来事を受け容れる勇気を、自分自身の中に見出した事が、

「せいで」という被害者意識を叩き壊すのだと思っています。

被害者意識を脱したということは、心に確かな【自分】という意識、が一気に育ったことを意味します。

心に【自分】が育つと、更に自分と向き合い続ける事で、気づきが、次の気づきを呼びます。

かつて生きづらさの沼に沈んでいた自分が、気づきを重ねている喜びを感じ、

この喜びは、長く苦しみの沼に堕ちていた「からこそ」辿り着いたのだ、という思いに包まれます。


「せいで」の心境は被害者ポジションであり、その心境に在るという事は、親に呑まれ、親が主役の人生を脇役として歩んでいます。

「にもかかわらず」の心境は、確かな【自分】という意識が育ち始めた証しです。

「からこそ」の心境は、【自分】として、自分の人生を歩み出して初めて届く心境と言えます。


「せいで」の心境から脱する事は生きづらさを手放す道のりに於いて、最大の難所である様に思います。

先に触れました様に「せいで」の心境のまま、人生を歩む人は、とても多いのですが、

それが悪い、と言っているのではありません。
人生は選択の連続であり、その選択には、善悪、正誤も、優劣もありません。

ただ、生きづらさに気がついて、生きづらさを手放す決意を固めたならば、

その道のりは、被害者意識を手放し、
【自分】を育て、
【自分】が人生の主人公になる道のりである、
という事をお伝えしたい、と思った次第です。

どんなに過酷な過去が有ろうとも、

否、過酷な過去があればこそ、

決意を固めた時点で、

望む人生を歩む権利を、

その人は持っている、のです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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