儀田尚子

これまでコピーライターやPRプランナーなど、さまざまな仕事を続ける中で「心に残った言葉…

儀田尚子

これまでコピーライターやPRプランナーなど、さまざまな仕事を続ける中で「心に残った言葉」は数知れず。すでに人生を追想(Recollection)する世代となりましたが、忘れることも増えた今日この頃。そこで、忘れぬ内に思い出して集めて(collection)みようと思い立ちました。

最近の記事

「それでね、ヨシダさんはどう思います?」野口五郎

今年が七回忌という西城秀樹さんの長男が、この春デビュー。5月には、野口五郎さんのコンサートに足を運んだというニュースも拝見しました。 西城秀樹・野口五郎・郷ひろみのお三方を「新御三家」と呼ぶのは昭和世代の常識で、「新御三家の中では誰に会いたい?」と聞いてくる同級生に「加藤茶!」と答えるような私でも、当時のティーンエイジャーが皆そうだったように、彼らの曲は全部知っていて全部歌えたものです。 PRの仕事をしていた40代の頃。野口五郎さんのコンサートを担当する機会があり、ご本人

    • 「これはお金を入れて電話を掛けられる機械なんだよ」幼稚園児5歳

      半年ぶりに会ったお孫ちゃんと、新宿中央公園で遊んでいた時のお話。幼稚園で習ったことを教えたくて仕方ない彼は、目につくものをすべて説明してくれます。 「これは自動販売機で、お金を入れるとジュースが出てくるんだよ」「アメリカの人は英語を話すんだよ」という具合に、とにかくプレゼンが止まりません。でも、そこで「知ってる」なんて言うと彼のモチベーションが下がるので、「へぇ!」「そうなの」と驚く大人の対応を続けていました。 やがて公園の一角にあるものを見つけた彼は、「こっち来て!」と

      • 「さんまさんが私のことを知ってて、びっくり!」伊藤みどり選手

        2024年はオリンピックイヤーではあるけれど、パンデミックで変則的な3年後の開催となったせいか、あと3カ月と言われても今一つピンと来ないのが実感です。 私の中で一番思い入れのあるオリンピックと言えば、1992年(平成4年)にフランスのアルベールビルで開催された冬の大会。この大会で銀メダルに輝いたフィギュアスケート・伊藤みどり選手の本を担当することになり、その年はかなり長期間にわたって取材を続けました。 何しろメダリストということで、国民的に注目されている時期です。各方面か

        • 「女は話し方、食べ方、歩き方」昭和一桁生まれ♀

          母の日も近いこの時期、30年も前に亡くなった母の口癖を思い出します。 いつも言っていたのは「女は話し方、食べ方、歩き方」という三原則でした。 「汚い言葉を使ってはダメ。心も姿も汚くなります」そう言われて気を付けていたつもりでしたが、おばあちゃん子だった私が教わった丁寧な言葉は時に通じず。学生時代、百貨店の案内嬢に「ご不浄はどちらでしょうか」と尋ねて、「当店では扱っておりません」と言われたことも。 また「ものを食べる時は、何を食べても果物を食べているように」というのは、切り

        「それでね、ヨシダさんはどう思います?」野口五郎

          「一番頭のいい女と一番頭の悪い男が同じくらいだと聞くぞ」昭和一桁生まれ

          女性の参政権が認められたのは昭和21年(1946年)だそうですから、昭和4年生まれの父は当時17歳。子供の頃には「一番頭のいい女と一番頭の悪い男が、ちょうど同じくらいの賢さだ」と聞かされて育ったと言いますから、女性の政治参加には驚きがあったかもしれません。 私がその話を聞いたのは小学生の時で、子供ながら「ずいぶん乱暴な仮説だ」と思ったことを覚えています。「100点を取る女の子と0点の男の子が、同じなわけないじゃない」と言い返すと、「そうなんだが…とにかくそう教えられた。それ

          「一番頭のいい女と一番頭の悪い男が同じくらいだと聞くぞ」昭和一桁生まれ

          「あなたは職業婦人になるのね」祖母・ミエ

          2024年前期の朝ドラは、日本初の女性判事および家庭裁判所長になられた三淵嘉子さんがモデルとか。1914年(大正3年)生まれの彼女は明治の終わり頃に生まれた私の祖母と年代も近く、社会的な背景も似たようなものだったと思います。 ドラマの中で、当時は女性の立場が著しく低かったという描写が繰り返し描かれますが、祖母もそのことを感じていたのかしら。 私が仕事を始めると、目を輝かせて「あなたは職業婦人になるのね。素敵」と言っていた祖母。学校を出て働くのが当たり前だった私には「職業婦

          「あなたは職業婦人になるのね」祖母・ミエ

          「読み返した時に懐かしいって思える文章が書ければ、それでいいんだよ」T先輩

          春になって新しい環境へ一歩踏み出す時、そこでどんな人や言葉に出会えるのかは、不安もあるけれど楽しみでもあります。 私がオーディション以外で初めてきちんと試験を受けて入社した編集プロダクションは、小さい会社でしたが、1980年代に「おいしい生活」などのコピーで話題になっていた西武百貨店のSP媒体を担当していて、下請けながら勢いのある職場でした。 今のようにすべてデジタルで処理できる時代ではないし、徹夜作業になることも多く、校了すると皆で池袋や新宿に繰り出して深夜だろうが打ち

          「読み返した時に懐かしいって思える文章が書ければ、それでいいんだよ」T先輩

          「彼の心の港になってあげてください」桜金造

          大谷選手の結婚には、多くの方がSNSでもお祝いのコメントをされました。直接本人に伝えなくても、善きことを祝い幸せを祈る行動は見ていて気持ちのよいものです。 私が最初の結婚をした1882年(昭和57年)には、まだ携帯電話も普及しておらず、お祝いのメッセージはすべて家の固定電話にかかってきました。当時の夫は仕事が忙しかったため、ほとんどの電話には出たのは私です。芸人だったせいで同業の方からもよく電話をいただいていて、ある時は「奥様に伝言をお願いします。『トムは悪い子なんかじゃな

          「彼の心の港になってあげてください」桜金造

          「お父様は方言をお使いになるのね」田園調布保育園園長

          受験シーズンから卒業シーズンに移り変わる、この時期。いわゆる「お受験」ではないけれど、保育園の面接で私一人が赤面したシーンを思い出します。 当時3歳の息子を連れて、家から徒歩5分ほどの保育園へ面接に出かけた時のこと。応対くださった園長先生は、柔和な表情の年配女性でした。「お名前は何ていうのかしら?」「お年はいくつ?」といったお約束の簡単な質問に元気よく正解していた息子が、「お父様はいつも何ておっしゃるの?」と聞かれた時には、フリーズしてしまいました。芸人の父親を「ししょう(

          「お父様は方言をお使いになるのね」田園調布保育園園長

          「早めにNOと言ってあげる方が絶対親切だ」キートン山田

          声優のTARAKOさん急逝というニュースを聞いて一番に思い出したのは、「彼女は脚本も書けるし、本当に才能ある人なんだよ」といつも言っておられた旧知のキートン山田さんでした。アニメ「ちびまる子ちゃん」のナレーターと主役として30年以上の交流がおありですから、その悲しみは深いことでしょう。実際にキートンさんが創設された劇団「ふりぃすたいる」でも、TARAKOさんの脚本で舞台公演をされていたと聞きます。 最初の出会いは1990年、環境庁(当時)監修の教育ビデオ制作の現場。その後、

          「早めにNOと言ってあげる方が絶対親切だ」キートン山田

          「誰にでん敬意を表さんばいかん」秋山ミスエ

          アメリカ大統領選挙の予備選が行われるスーパーチューズデー。共和党のT元大統領は他人の悪口か自慢話しかしないので苦手ですが、あれほどの支持を集めているのには何か私の知らない理由があるのでしょう。彼の言葉を聞きながら、秋山のおば様だったら何と言うかしら、と考えました。 秋山のおば様というのは母の娘時代からの親友で、ソフトバンクホークスの監督を務めた往年の名スラッガー・秋山幸二さんのお母様。 おば様の口癖は「誰にでん敬意を表さんばいかん」でした。熊本弁で、誰に対しても敬意を表さな

          「誰にでん敬意を表さんばいかん」秋山ミスエ

          「あんたはいざりか?」石井均

          セクハラだのモラハラだの、コンプライアンス絡みの論議がかまびすしい今日この頃。昭和から来たタイムリーパーがコンプラ違反満載のセリフを吐くドラマが話題です。昭和の時代も多少の自主規制は合ったものの、不適切という決めつけはなく、どんな言葉もただの日本語でした。 1978年の1月。初めてのドラマ撮影で上大崎の目黒スタジオに入った私は、ペーぺーの新人らしく緊張しておりました。控室に入ってこられる皆さんはどなたも先輩なので「おはようございます!」と挨拶をしていたのですが、ベテラン喜劇

          「あんたはいざりか?」石井均

          「魚の口に針がひっかかんの可哀想やから、魚釣りには行かれへん」大空テント

          1990年代から徐々に数を減らしていた交通事故の死亡者数が、2024年になってついに増加に転じたという記事が。そういえば、2016年に亡くなった芸人・大空テントさんも交通事故死でした。 1980年代の半ばごろ、当時の夫(芸人)の友人だったテントさんは家にも泊まりに来ていました。夫は飲んだ勢いで連れてきたテントさんを置いて、一人でさっさと寝てしまうのです。そうすると話し相手は私だけに。 「こないだ、アリの行列を見とったらな、遅刻してん」「魚の口に針がひっかかんの可哀想やから、

          「魚の口に針がひっかかんの可哀想やから、魚釣りには行かれへん」大空テント

          「私たちは何でもいただきます!」きんさん・ぎんさん

          2023年は出生率が過去最低だったのに対し、80歳以上が人口の1割を超えたとか。少子高齢化の話題が出ると、100歳の双子・きんさんぎんさんを思い出します。1991年(平成3年)に100歳を迎えたお二人は、翌年テレビCMで「100歳100歳!」と連呼して一躍人気者になった、遅咲きの姉妹ユニット(ユニット?)です。 2年後の1993年に、映画のPRで名古屋城に桜の植樹をお願いすることになり、宣伝担当としてアテンドさせていただいたときのこと。金色と銀色のショベルを見せて、「この後

          「私たちは何でもいただきます!」きんさん・ぎんさん

          「授業にはエンターテイメントが必要だと思ってるんです」サレジオ学院教頭(当時)

          受験雑誌の仕事で、中高一貫教育の私学を取材していた頃。ミッション系の学校も多く、当時川崎にあったサレジオ学院中学校・高等学校で取材対応をしてくださったのは、教頭先生だったと記憶しています。 チャイムが鳴って遊んでいた生徒たちが教室に入ってしまうと、校庭のあちこちから等間隔に設置されたスプリンクラーがせり出して、一斉に水を撒き始めたのには驚きました。小さな噴水がクルクル回る光景は、まるで何かのアトラクションのよう。「すごいですね」「校庭の埃を抑えてるんですけど、ちょっと楽しい

          「授業にはエンターテイメントが必要だと思ってるんです」サレジオ学院教頭(当時)

          「変わってんのよ、あの人。」樹木希林

          映画のパンフレットに使用する写真を、出演者の所属事務所に送って確認してもらう作業をしていた時のこと。 主人公の姉を演じた樹木希林さんの事務所に電話を入れると、電話番だという女性が応じてくださいました。 「掲載写真?スチールカメラマンの人が撮影した写真だったら、どれ使っても大丈夫だから」 「え?実際に確認されなくてもいいんですか?」 「大丈夫よ。どんな写真だって本人なんだから一緒よ。そういうとこ、全然気にしないの。変わってんのよ、あの人。アハハ」 結局ノーチェックのまま、パン

          「変わってんのよ、あの人。」樹木希林