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この社会は「マルトリートメント」ばかりだ。②

では早速「マルトリートメント」の具体例を紹介します。

体罰、しつけ

まずは、「体罰」「しつけ」と称して行われる言動です。

    日本には、昔から体罰という風習があります。親や教師などが、子どもに対する教育の一環として、肉体的な苦痛を伴う罰を与えるものです。わたしの子ども時代、学校では、宿題を忘れたら廊下に立たされる、教室で騒いでいたら正座させられる、といった懲罰は日常茶飯事で、特に悪いことをした生徒など、頭やおしりを叩かれることも珍しくありませんでした。
「良いことと悪いことの区別を、身をもって覚えさせる」という理論です。この理論によれば、子どもの行いを正すのが目的であり、危害を加えるのが目的ではない、ということになります。
 しかし、子どもが大人に殴られるということは、わたしたち大人が、レスラーのような強靭な相手に殴られるようなものです。仮に大人のほうでは手加減しているつもりでも、子どもは「もしかしたら殺されるかもしれない」といった恐怖に襲われ、たとえ身体には傷が残らなくても、恐ろしいという感情が子どものこころに残っていきます。
(pp.35~36)
…行き過ぎた体罰によって子どもが命を落とす事件が跡を絶たないことに鑑みると、体罰はマルトリートメントであり、なくすべきだというのがわたしの考えです。 (p.38)

何度教えてもその通りに行動できない人に対しては、暴力や暴言を使ってでも覚えさせようとする先生や親の姿を、僕もたくさん見てきました。

つまり、友田先生が学生だった時代も、僕が学生だった時代も、
"「体罰」や「しつけ」は必要だ" という認識の先生方や親がいた、というわけです。



「マルトリートメント」の落とし穴


僕自身は、度を超えた身体的な暴力を受けた覚えがありません。

しかし、
他人同士の「体罰」や「しつけ」が行われている場面は、
何年も前の出来事だったとしても、鮮明に思い出せてしまうんです。


考えてみれば、変ですよね。

直接的な被害者じゃないのに、
トラウマのように記憶できてしまっている
、って。


気持ち悪い違和感を抱えながら、友田先生の著書を読み進んでいる内に、

人として不適切な言動というのは、その場面を見聞きしただけでも、脳やこころに悪影響を及ぼすものなんだと確信できる文に出会いました。

    体罰について、もう一つ見過ごしてはならないのは、「身体的なマルトリートメント」であると同時に、「こころのマルトリートメント」でもあるという点です。
    人は誰でも、自分より体格の大きな人間から暴力を受ければ恐怖を覚えます。また、けがを負うほどではなくても、ほかの人間が見ている前で叩かれ、自分のほうはやり返すことができないという不当な状況は、屈辱的です。
    体罰を受けた経験を振り返って語るとき、「悪いことをしていないのに叩かれたことが悔しかった」と言う人は決して少なくありません。あるいは、「恥ずかしい、自分はだめな人間なのだ」と感じる人もいます。身体の痛みよりもむしろ、完全なる服従を理不尽に強いられたという「屈辱」、「恥辱」の感情のほうが、こころに強く残っていくのです。ですから、「体罰は百害あって一利なし」なのです。
(pp.39~40)

自分以外の人が平手打ちを受けた場面を想像してみてください。

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自分に対する言動ではないと分かってはいるものの、
なぜか身動きがとれなくなる思いをする方もいるんじゃないでしょうか。


クラスメート同士のけんかでも、
夫婦や親戚たちによるけんかでも、
街中での見知らぬ人同士のけんかでも、

度を超えた言動を見聞きする度に、僕は、
体が硬直し 思考も止まる という経験ばかりしてきました。


直接危害が加わらない位置関係であっても、
叱られている様子や暴力を伴う音が目や耳に入ってくるだけで、
その行方を目で追いかけてしまう癖もついてしまいました。


仮に「行いを正すためだった」としても、

相手の意見を受け入れず 服従させるために暴言や暴力が使われている時点で、環境問わず「マルトリートメント」な上に、

「マルトリートメント」が行われている場面に遭遇した人たちにも からだやこころに悪影響を及ぼす典型例だといえます。


要するに、

コミュニケーションをとった相手だけでなく、その様子を目撃した人たちにも「マルトリートメント」による悪影響を与えるかもしれないと、
前もって頭に入れておく必要がある、ということなんです。



また、一対一の空間で会話していた としても、
それを見聞きできてしまう位置に居る人のことを無視してはいけないんです。


家庭内暴力(ドメスティック・バイオレンス、DV)は、その最たる例です。

…両親間のDVを目撃すると、実際、子どものこころと脳には多大なストレスがかかります。仮に目の前では起きていなくても、子どもというのは敏感に家庭内の出来事を察知しているものです。そして多くの場合、自分が家族を守れなかったことに対し、罪悪感をもちます。
 あるいは、自分だけが被害にあっていないことに罪悪感を抱き、自分もまた加害者として加担していると思い込んでしまうケースもあるようです。こうした罪悪感もまたトラウマ(こころの傷:心的外傷)となって、子どものこころと脳を蝕んでいきます。
(pp.60~61)

社会にありふれたコミュニケーションのしかただから とか、
犯罪にはあたらない と思い込んでいたとしても、

これらは身体的なマルトリートメントであり、同時に、精神的なマルトリートメントでもあるんです。
(言動の内容によっては、性的マルトリートメントにあたる場合もあります。)



不適切な言動、やってはいけないこと とも言い換えられる「マルトリートメント」。
これまでお伝えしてきたものにも、この先お伝えするものにも、共通して言えることがあります。


・不適切な行動を反省し 改心した姿を見せるべき相手は、
目に見える被害を受けた人だけではないことに気づいてほしい。


・どんなマルトリートメントかは判別できていなくても、いつまで経っても嫌な思いが残っているのならば、人としてやってはいけないことが何か起きたんだな と覚えておいた方がいい。


・個人的に嫌に思う言葉や場面、態度を明確にしておくと、どう対処すればいいか考えられるようになる。


詳しくは③で紹介します。

オーノ



引用文献

友田明美「子どもの脳を傷つける親たち」 NHK出版、2017年


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