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2023年 3冊目『我的日本語』

松岡正剛さんの塾での課題図書です。

かつて東京大学の現代文の問題になった本です。

リービ英雄さんはアメリカ合衆国力リフォルニア州生まれの小説家で、「星条旗の聞こえない部屋」および「天安門」などの代表作があります。

万葉集の英訳で全米図書賞、星条旗・・・で野間文芸新人賞を皮切りに野間文芸賞などを受賞。

日本語を母語とせずに日本語で創作を続けている作家の一人です。

日本語に特徴的なもの

→一人称と二人称の使い分け←歴史の中の社会問題(多和田洋子)

→動詞の使い分け

書き言葉としての日本語には緊張感がある

→日本語の文字の歴史に否応なしに参加

→漢字かひらがなかカタカナを選ぶ。いい意味での不自然さ

→選択という過程が常にある

「異質なものを同化させる」ことによって成り立っているエリクチュール(書く行為)

→常にその中で生きるのはストレートに生きることではない→神経質に見える

新宿

→東京の中で最もアジア的

→よそ者が自由に生きられるニューヨーク的、マンハッタン的な空間があった

中上健次の文章は平安時代の散文のようだと言う批評家もいる

→文が長く、主語がよくわからず、あちこちに飛ぶような視点で近代ルールから外れている

→リービ英雄さんに日本語で文章を書け

→星条旗の聞こえない部屋

万葉集を英訳していることは言いたくなかった

→外から日本語を読んで、母国語に翻訳することだから

天皇像をなぞって、異国語で書いてみた、という体験を持っている

山上憶良渡来人説

→大陸の感性を島国の言葉で

バイリンガルエキサイトメント

→言語のズレ、その境界に立って興奮し、言葉が非常に際立っている

天安門広場で、毛沢東に向って歩きながら古代の天皇をめぐる48番を思い出す

人麿は御用詩人と呼ばれたけれど、天皇家の人々の心情をあえて書こうとした

911で千々にくだけて 芭蕉の句が浮かんだ

人麿の文体には、20世紀最大の散文家たちは、昔の時間と現代の時間、神秘的な時間と現実的な時間を様々なかたちで混ぜてしまう

5世紀から6世紀に豊かな口承文化(古事記、日本書紀)に突然文字が入ってきた

朝鮮の郷歌(ヒャンガ)に使われている感じを表意、表音のためにつかった独自文字

→日本の万葉かな

漢字を輸入し、痕跡を残しながらネイティブな混じり文を作った→ユニーク

文字を持つ以前により本質的なものがあった感覚

→天皇が文字で書かれた時点で変容している(古事記が書かれた時代)

古代語は母音が8つ(朝鮮語と同じ)あったと言われている

英語にはジェンダーへのこだわりがあるが、古代天皇像にはない

枕詞(例えばあをによし)は翻訳不可能

1972年リカイセイが芥川賞を受賞

ゆんひ:ことばの杖を、目覚めた瞬間に掴めるかどうか、試されているような気がする

→言葉とアイデンティティの問題が身体的に分かる

→何人である、何語で話す、何語で考える、何語で書くか がテーマ

→民族と言語が切り離された

→明治以降、人種、民族、文化、そして言葉、この4つがイコールサインで結ばれていた

→在日文学によって、言葉が落ちた

→民族とは何か?をハッキリさせた

自分は日本にも帰り、韓国にも帰る←李良枝

1円50銭が言えるかどうかで朝鮮人かどうかをあぶりだした

多和田葉子:ドイツ語で文学を書く

→自分は何人であるかを追求しない

→エクソフォニー(母国の外へ出る旅)

母語と異言語の関係は、社会科学的な言説によって説明できるものではない。必ずしも、歴史的、政治的、経済的に説明できるものではない。一人ひとりにとって、動機もきっかけも違う。一人ひとりの人間にとって、母から学んだ言葉と自分で獲得した言葉の関係が違う。

日本語の勝利

→日本の勝利でもなく、日本人の勝利でもなく

リービ英雄さんは、山上憶良のように中国天安門の事を外国語である日本語で書いた

中国開封:イスラム系、ユダヤ系中国人が1000年も同じ場所にいた

21世紀の最初の数年間での2つの重要ニュース

→中国経済の台頭

→西洋とイスラムの関係

ガイジンというものに対してもっとも排他的であると、自他ともに思われてきた日本

アメリカや中国は文明で、日本は文化であるby司馬遼太郎

→文明:多民族性と自分のルールの普遍性を信じる

→文化:必ずしも合理的なものではなく、その中にいる人たちにしか通じない

911

→あの日はじめて、自分たちの国が、決して普遍的に愛されている文明でないこということを、暴力的に気づかされた

万葉の時代から、日本語を母語としない人々が日本に参入していた

→日本は普遍の可能性持っていた

日本における大学とは、大きな翻訳機=翻訳者養成所として、日本語を国語という、その言葉で、学問できる言葉に仕上げていった場所である

我的中国→Subjective China

我的日本語→Subjective Japanese

ペットボトルの水にあたって→ジャアシゥェイ→仮水(偽の水)→仮の水

仮名は偽の文字

→日本人が自分たちで作ったもの

→自分で作ったものだから本物ではないという意識

漢字は非常にどっしりとした、permanentな事実

ひらがなはあやうさのようなもの、impermanent

大説と小説は文明と文化に置き換えられる

新しい文学が生まれるということは、いつも異言語に身をさらすことだ

東大の問題を以下に記します。(アメブロにあった元法学部生が入試問題をおさらい から転記)

なぜ、わざわざ、日本語で書いたのか。「星条旗の聞こえない部屋」を発表してからよく聞かれた。

母国語の英語で書いた方が楽だろうし、その母国語が近代の歴史にもポスト近代の現在でも支配的一言語なのに、という意味合いがあの質問の中にあった。

 日本語は美しいから、ぼくも日本語で書きたくなった。

十代の終り頃、言語学者が言うバイリンガルになるのに遅すぎたが、母国語がその感性を独占支配しきった「社会人」以前の状態で、はじめて耳に入った日本語の声と、目に触れた仮名混じりの文字群は、特に美しかった。

しかし、実際の作品を書く時、西洋から日本に渡り、文化の「内部」への潜戸(くぐりど)としてのことばに入りこむ、いわゆる「越境」の内容を、もし英語で書いたならば、それは日本語の小説の英訳にすぎない。

だから最初から原作を書いた方がいい、という理由が大きかった。

壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのものについて、小説を書きたかっ たのである。

 ぼくにとっての日本語の美しさは、青年時代におおよその日本人がロにしていた「美しい日本語」とは似ても似つかなかった。

日本人として生まれたから自らの民族の特性として日本語を共有している、というような思いこみは、ぼくの場合、許されなかった。

純然たる「内部」に、自分が当然のことのようにいるという「アイデンティティ」は、最初から与えられていなかった。

そしてぼくがはじめて日本に渡った昭和40年代には、生まれた時からこのことばを共有しない者は、いくら努力しても一生「外」から眺めて、永久の「読み手」でありつづけることが運命づけられていた。

母国語として日本語を書くか、外国語として日本語を読んで、なるべく遠くから、しかしできれば正確に、「公平」に鑑賞する。

 あの図式がはじめて変ったのは、もちろん、ぼくのように西洋出身者が日本語で書きはじめたからではない。

その前に、日本の「内部」に在しながら、「日本人」という民族の特性を共有せずに日本語のもう一つ、苛酷な「美しさ」をかち取った人たちがいたからだ。

日本語の作家としてデビューしてまもない頃に、在日韓国人作家の李良枝(イヤンジ)から電話があった。

李良枝は、『由煕』 の舞台にもなった、「母国」での何度目かの留学を終えて東京に戻り、ぼくがジャパノロジーの別天地を捨てて、日米往還の時代を含めて十いくつ目に移住した新宿の木造アパートと、さほど遠くない場所に移ることになった。

「韓国人」の日本文学の先輩が「アメリカ人」の日本文学の新人を激励してくれる、という電話だったのだが、話しが弾み、そのうちに、『由煕』の主題でもあった、日本語の感性を運命のように持ったために、「母国」の言語でありながら「母国語」にはならなかった韓国語について、ぼくがたずねてみた。

 動詞の感覚は違う、という話しになった。

韓国語では、日本語と比べて、いわゆる「大和ことば」に相当するような動詞を使わないで漢字の熟語+하다(ハダ、する)を言うことがどれだけ多いか。

ソウルの学生が交わす白熱した議論の中でたびたび問題にされる「うらぎり」にしても、それを「わざわざ」漢語の「배반」(ペーパン)つまり「背反」すると言うのは、自分の感覚とは違う、ということを李良枝が言った。

 「日本人」として生まれなかった、そのために日本の「内部」において十分な排除の歴史を背負うことになった日本語の作家が、日本の都市から「母国」の都市に渡ったところ、そこで耳に入ることばは、漢語と、土着の、日本語風に受けとめれば「仮名」的に響く表現のバランスが、どうしても異質なものとして聞こえてしまう、と。

 あの会話をした日から一ヶ月経って、李良枝は急死した。

ぼくの記憶の中で、彼女は若々しい声として残っている。エ「日本人」として生まれなかった、 日本語の感性そのものの声を、思い出す度に、「母国語」と「外国語」とは何か、一つのことばの「美しさ」は何なのか、そのわずかの一部をかち取るために自分自身は何を裏切ったのか、今でもよく考えさせられる。

 そして日本と西洋だけでは、日本語で世界を感知して日本語で世界を書いたことにはならない、という事実にも、おくればせながらあの頃気づきはじめた。

 日本から、中国大陸に渡り、はじめて天安門広場を歩いたとき、あまりにも巨大な「公」の場所の中で、逆に私小説的な語りへと想像力が走ってしまった。

アメリカとは異った形で自らの言語の「普遍性」を信じてやまない多民族的大陸の都市の中を、歩けば歩くほど、一民族の特性であると執拗なほど主張されてきた島国の言語でその実感をつづりたくなった。

まずは、血も流れた大きな敷石の踏みごたえと、そこに隣接した路地の、粘土とレンガを固めた塀と壁の質感を、どうすれば日本語で書けるか、という描写の意欲を覚えた。そのうちに、アメ リカ大陸と中国大陸の二つのことばを媒体とした感情が記憶の中で響く一人の主人公の物語を、想像するようになった。

 古代のロマンではなく同時代の場所としての中国大陸の感触を日本語の小説で体現するという試みは、半世紀前に、上海に渡っていた武田泰淳にも、また満州に渡っていた安部公房にもあった。

1990年代に日本から渡ったとき、その半世紀間に繰り返された断絶の痕跡としてラディカルに変えられた文字の異質性を、まず受け止めざるをえなかった。

「东」や「丰」や「乡」という形体がいたるところでこちらの目に触れて、それが「배반합니다」(ペーパン・ハムニダ、背反します)という声が在日作家の耳に入ったときとは、またズレの感触が違うだろう。

私小説はおろか小説そのものからもっとも遠く離れた、すぐれて「公」の場所、十億単位の人を巻きこんだ歴史の場所で、その歴史に接触して崩壊した家族の記憶が頭の中で響いている。

そうした一人の歩行者のストーリーを、どのように維持して、書けるのか。

日本から、北京に渡り、その中心を占める巨大な空間を歩きながらそう考えたとき、母国語の英語はもはや、そのストーリーの中の記憶の一部と化していた。

北京から東京にもどった。新宿の部屋にもどった。アメリカ大陸を離れてから、6年が経っていた。新宿の部屋の中で、二つの大陸のことばで聞いた声を、次々と思いだした。「天安門」という小説を書きはじめた。

 二つの大陸の声を甦らせようとしているうちに、外から眺めていた「Japanese literature」すら記憶に変り、世界がすべて今の、日本語に混じる世界となった。

続き読みたくなりませんか?

ちなみに設問は以下です

(一)筆者が日本語で小説を書こうとした理由はどこにあると考えられるか、わかりやすく説明せよ。

(二)「おおよその日本人が口にしていた「美しい日本語」」とあるが、ここにいう「美しい日本語」とはどのようなものか、わかりやすく説明せよ。

(三)「一生「外」から眺めて、永久の「読み手」でありつづける」とあるが、どういうことか、わかりやすく説明せよ。

(四)「「日本人」として生まれなかった、日本語の感性そのものの声」とあるが、ここでいう「日本語の感性」とはどのようなものか、わかりやすく説明せよ。

(五)「世界がすべて今の、日本語に混じる世界となった」とあるが、どういうことか、文中に述べられている筆者の体験に即し、100字以上120字以内で述べよ。

解答例

(一)筆者にとって外国語であった日本語との遭遇体験は、音声と文字において固有の美しさを持つ日本語の原作でしか表現できなかったから。(62字)

(二)外国語の感性に支配された者が新鮮に感じる日本語ではなく、日本に生まれた者が民族の特性として共有している自然な日本語。(58字)

(三)外国語を母国語とする者は日本語を読めたとしても、日本語文化の内部者として日本語で表現する主体と認められることは一生ないということ。(65字)

(四)日本国内にいながら外国人ゆえに日本民族の特性は共有しないが、母国の言語である韓国語には微妙な違和感を持つ在日韓国人の日本語に関する感性。(68字)

(五)多民族的大陸の米国と中国の言語の普遍性との対比により、研究対象から、島国の一民族の特性に基づく感性と美しさを共有できる自分の言葉へと化した日本語で、天安門という公の場所で着想した小説を書くことを通じ、初めて世界を感知し表現できたということ。(120字)

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