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【短編小説】 ある老女の告白 【百合】

私が、今からここへ綴ろうと思っております話は、私自身の罪の告白でございます。私はいよいよ遂に自分の犯した過ちに耐えかね、恥を捨て、包み隠さずに全てを世間の皆さまに告白しようと決意致した次第なのでございます。私は、筆を置いた後、死をもってこの罪を償うつもりでおります。この原稿は、知り合いの方に頼み、私の死後、世に公表される手筈になっております。この場を借り、この老いぼれの最後の願いを快く受け入れて下さったKさんに心よりの感謝を申し上げます。
さて、私が犯した罪というのは、殺人なのでございます。私は、この世の誰よりもお慕いしていた方を殺してしまったのです。あれは、世間では自殺として処理されましたが、紛れもなく私が起こしたれっきとした殺人なのでございます。尤も、関わった皆さまがあれを自殺と判断するのは無理もございません。あれは、「合意の上での殺人」で、死体には抵抗した痕跡も、生前誰かと揉めていたという事実も表立ってはなかったのですから。例え、この告白を受け、どなたかがまた捜査しようと思われても、何かを発見するのは不可能かと思われます。第一、時が経ち過ぎています。今更、殺人事件だったことを証明出来るものは恐らくないでしょう。証明出来るとしたら、私の証言だけなのでございます。私さえ黙っていれば、世間さまには決して気付かれることはないのです。
だと言うのに、公表しようと思い至ったのは、罪の意識に耐えかねた以上に、老いた私の命がもう尽きようとしていることが日を追う毎にひしひしと自身の身体に表れて来ているのが痛感されたからでございます。自分の力で筆を持つことが出来る間に、この話を書き残さなければならないと思いました。それがせめてもの弔いになれば、とも自分勝手ながら、考えております。もちろん、今まで、自分の犯した罪に耐えかねて何度も死のうと考えたことはございました。ですが、私が殺した相手が、最期に残したある言葉によって、私は生きることをやめることが出来ませんでした。とはいえ、それを振り切って死ぬことだって本当は出来たはずなのです。結局は私は、何十年経っても変わらないどうしようもない臆病者なのです。救いようのない卑怯で哀れな女なのです。
彼女と出会ったのは、女学校でございました。彼女は、水無瀬ユリヱさんと言って、名前の通り本当に可憐で可愛らしい方でした。美しく伸ばされた黒髪は絹のようで、大きく黒目がちな瞳を縁取る睫毛はうっとりするほど長く、鼻は西洋人のように高くスッと通り、常に弧を描いている形の整った唇…。彼女を見て、彼女の美貌の虜にならぬ者はおりませんでした。顔立ちだけでなく、心まで澱みなく美しい彼女は、引っ込み思案で特筆することのない平凡な私などとは異なり、明るく、誰からも愛され、彼女もまた聖母のような優しさでもって、地元で有名な名家のご令嬢だと言うのに、驕らず分け隔てなく人々を平等に愛しました。その優しさは、私のような者にも、きちんと注がれました。いつ頃だったか、私が一人で昼食をとっていました折に、彼女に声をかけられて以来、一緒に食事をしたりするようになりました。街で評判の美しい彼女と仲良くなれたことは、いくらか私を得意にさせましたが、彼女と対峙する時、私はいつも、どこかで自分の醜さが彼女の輝きで炙り出されるような心持ちになっておりました。
彼女は、何故か私を特別扱いしてくれました。いつもは人々を均等に愛す彼女が、私に対してだけは、ある種違った愛を向けてくれました。ユリヱさんは、よくそっと私を優しく抱き寄せて、「愛しているわ」と囁いてくれたのです。それは、私を有頂天にするのに十分でした。私も、夢中で彼女の愛に応えました。ユリヱさんをこの世の誰よりも理解しておりましたし、彼女も私のことを隅々まで理解してくれておりました。ですが、それは決して許される愛ではありませんでした。ユリヱさんと私の恋は絶対に世間にはバレてはいけない秘密の愛でした。女性は皆、親の決めた顔も知らないような男性に嫁ぐ時代のことです。そもそも女学校へ行くのだって、「女だてらに…」と反対されたくらいで、「花嫁修行のためよ」と、心にも無いことを言って、やっと父から「相応しい婿が見つかるまで」という条件付きで許しが出たのですから。恋愛なんて、自由に出来る訳がありませんでした。
現代の街行くカップルのように、表立って手を繋いで歩くことも、堂々と口づけを交わすことも、出来ませんでした。外で彼女と歩く時は、ただの仲の良い同級生として振る舞わねばいけません。ですが、それで良かったのです。かえって、二人きりの時、「チヨちゃん…好きよ…愛しているわ…誰よりも…ネエ、だから、抱き締めて頂戴…」と、むず痒くなるような言葉を囁きながら甘えてくるユリヱさんが、より一層たまらなく愛おしく思えたのですから。
彼女と木陰に隠れ、お互いを見つめ合いながら、初めての口づけを交わした日のことは、この先私が地獄に堕ちてどんな責苦を受けても忘れることは出来ないでしょう。あの日、私は、私の人生で初めて自分がやっと主人公になれた気がしました。今、自分は自分のために、そしてユリヱさんのために生きている、そう思いました。唇を名残り惜しく離した時、彼女は涙を流しておりました。何か粗相でもあったのかと不安になり、ハンカチーフを探しておりますと、ユリヱさんは、私の手を握り、
「わたくし、とても感動しているわ。愛するコイビトとするキスはなんて胸が躍るんでしょう!……はしたないと言って怒らないで頂戴ね…?」
と上目がちに言ったのでした。その様子のいじらしさと言ったら、何にも比べようもなく、思わずもう一度口づけをしてしまうところでした。それから、私たちは、その木陰へ行っては秘密のキスをするようになりました。私は、あれ以上の幸せというものを知りません。あの木陰は、私にとっては楽園でした。
確かにこの上もない幸せを感じていた私たちに、悲劇が訪れたのはそれからしばらく経ってのことでした。ユリヱさんに、某貿易会社の跡取りとかいう方との縁談の話が持ち上がったのです。よく考えれば、ご令嬢で美しく聡明なユリヱさんに縁談がそれまで持ち上がらなかったのが、不思議なくらいでした。ユリヱさんは、「嫌よ!知らない人を愛することなんて出来ないわ。愛しているのは、チヨちゃんだけ。それに、わたくし、まだ学びたいことがたくさんあるのよ」と毎日毎日、木陰で泣き続けました。ユリヱさんは優しく、思いやりのある方でしたから、縁談が持ち上がって既にご両親や街中から祝福されているのを裏切ることもなかなか出来なかったのです。私たちは、失恋の危機に陥っても表立って愛する人との別れを嘆くことさえ許されませんでした。いよいよ、夢のような私たちの秘密の恋が終わりを告げる時がやって来たのです。
ユリヱさんは、それから、例の婿殿と何回か逢瀬を重ねたようでしたが、その度に彼女から何か美しさや生気と言ったものが失われていくような気がしました。聖母のような豊かさが、無くなっていったのです。尤も、皆は彼女の完璧な演技のために気付いていなかったようですが、ユリヱさんを心から愛していた私には、ハッキリと感じることが出来たのでした。
この頃から、木陰でキスをする度にユリヱさんは「このまま死んでしまいたい…」と零すようになりました。嫌と言えないユリヱさんの演技によって、婿殿も両家のご両親もすっかりその気になっていよいよ準備が整えば、すぐにでも結婚へ踏み切ろうとしているようでした。ご実家では、美しい自慢の娘のためのご結婚の準備が着々と進められ、家中、いよいよ結婚との噂を聞きつけたご親戚やらご近所さんやら、お父さまのお仕事仲間の方々からのお祝いの品やらで早速溢れていると言うのです。さらには、お着物だけではなく、当時にしては珍しく、西洋式の純白のドレスまで用意されていると言うのです。ご令嬢の結婚とは、こんなにも大層なものなのか、と純粋に驚きながらも同時に、望まない結婚を今にもさせられてしまいそうなこの可哀想な美しいコイビトの行く末を案じずにはいられませんでした。私が男で、婿殿よりもさらにもっと有名な家の出の御曹司だったら…と何度思ったか知れません。無力な私には、木陰でさめざめと泣く彼女を抱き締めることしか出来なかったのです。
そうこうしている内に、ユリヱさんの結婚が一週間後と相成りました。この知らせに街中、なんだか浮き足立ってお祭りの前のような空気感になっていましたのを、今でも覚えております。その頃にはもう既に婿殿は正式な婿殿として、ユリヱさんのご実家に招き入れられていて、使用人の方々からは「若旦那さま」と呼ばれていました。ユリヱさんのご実家へ伺った時に、私も婿殿と何回かご挨拶しましたが、ユリヱさんと同じように、見目麗しく優秀で懐の深そうな同年代にはチョット珍しいくらいの好青年だったものですから、街中、浮き足立つのも無理もないと思いました。ユリヱさんが婚約を断り切れなかったのも、頷けました。
三日後にはいよいよ盛大な結婚式を迎える水無瀬家へお祝いの品を届けるため、ユリヱさんを訪ねた時、「今夜、どうにかしてあの木陰に来て頂戴。絶対よ」と耳打ちされました。その日の夜、私は、家族の目を盗んで、家を飛び出しました。街灯もない道を、なんとか進んで、私たちの楽園へ辿り着くと、そこには純白のドレスを身に纏ったユリヱさんが立っていました。真っ暗な空間に、真っ白なドレスが輝いているのです。その光景の美しいこと。私が思わず見惚れていると、ユリヱさんが「チヨちゃん?」と言いながら、蝋燭の灯りをこちらへ向けました。と、同時に私の方でもユリヱさんの顔がハッキリと見て取れました。
「ユリヱさん、お綺麗ですわ、とっても…」
「ありがとう。嬉しいわ」
しばらく、私たちはそこでいつものように他愛もない会話をしました。このところ、落ち込んで見えたユリヱさんが楽しそうに笑っているのを見て、安心しました。実のところ、あの夜、私は、家を出る時、まだ言えていなかった結婚の祝福を伝えようと決意して来ていたのです。「たとえ結婚しても、私たちはずっと一緒よ」、そう誓い合おうと決意しておりました。
いつ言おうかと、考えているとユリヱさんが、突然
「わたくしを殺して頂戴」
とたった一言、ポツリと零したのです。
私が、呆気に取られていますと、ユリヱさんはさらに泣きながら言いました。
「このまま、結婚してしまうなんて、やっぱり耐えられないの。わたくしの愛する人はチヨちゃんだけ。わたくしに触れていいのは、チヨちゃんだけよ。他の人なんて考えられないわ。チヨちゃんとコイビトだった日々だけ、抱き締めて死んでいきたいの…ね、お願いよ…お願い…」
私は、「そんなのダメですわ!考え直してくださいまし!ユリヱさんがいなくなったら、私は…私は…!」と柄にもなく大きな声で泣き喚きました。ユリヱさんは、私を撫でながら、
「じゃあ、チヨちゃんはわたくしが、違う人のモノになってもいいの?」
と優しい手つきとは全く異なった残酷な言葉を投げかけて来たのです。その違いに戸惑いつつも、私はこう続ける他、ありませんでした。
「そんなの、いいわけありませんわ…ユリヱさんは、私の…私だけのユリヱさんですわ!」
その回答に満足したのか、ユリヱさんは、私の手を取って木陰から離れた森の奥へどんどん入って行きました。私は、この時、女学校の裏の森の奥が、ちょっとした崖になっていることを初めて知りました。
「ここから、貴女の手で、突き落として」
ユリヱさんは、崖のすれすれのところで私が何もしなくても今にも落ちていってしまいそうになりながら、決心した顔をして立っておりました。
「ユリヱさん、私も、一緒に逝かせてくださいまし…」
私がそう言うと、ユリヱさんは「貴女は生きて頂戴」と言いました。
「どうして…」
「わたくしは貴女のために死ぬのよ。わたくしが、貴女だけのモノになるために死ぬの。愛する貴女には、貴女の手で死んだわたくしを想いながら生きてほしい。……わがままだなんて、言わないで頂戴ね…?」
その言葉を聞いて、私は初めて口づけを交わした日のことを思い出して、つい笑みが溢れましたが、それは一種の呪いでした。彼女のことを、一生忘れられなくなる呪いを今から私はかけられるのだと身にひしひしと感じました。
彼女は、自分の手から外した美しい生地で作られたグローブを私の手に着けながら、「これで貴女の指紋は出ないはずよ。グローブは、ことが終わったらすぐに燃やして頂戴。グローブが無くなったって、誰も気付きっこないわ。気付いたって大丈夫よ。誰も今夜、わたくしたちが会ってたことも、仲良しの同級生以上の関係だったってことも知らないのだから。貴女は、大丈夫。神さまは真に愛し合う者たちの味方よ」、そう言って、私にそっと最期のキスをしたのです。
それからのことは、お察しの通りでございます。私は、操り人形のように、彼女に促されるまま、麗しの花嫁を崖から突き落としました。
底へ底へと落ちていく彼女は、月明かりに照らされて、輝いておりました。今から死ぬというのに、ひどく穏やかな表情で、聖母のような笑みを浮かべておりました。残酷であるはずなのに、それはそれは美しい光景でした。
その神秘的な光景も、彼女と愛し合った日々も、何もかもが、脳の隅々まで染み付いて、今でも離れないのです。彼女の呪いは成就したのです。
私は、彼女が崖から落ちたのを見届けると、彼女の言う通りにいたしました。女学校の焼却炉でグローブを焼くと、家に駆け戻り、朝は何事もなかったかのように起床しました。あんなことをしたと言うのに、あの時はひどく穏やかな気持ちでした。私はあろうことか、美しい彼女が、真に私だけのモノになったことに、安堵していたのです。私の永遠の花嫁になったことに酔いしれていたのです。
すぐに、花嫁の死体は発見され、街中大騒ぎになりました。さらに、その死が自殺と断定されたことが拍車をかけました。新聞などはなんの不満もなく幸せだったはずの美しい花嫁の死を、これでもかと扇情的に書き立てました。お祭り気分だった街は、一転ひどい悲しみに包まれ、皆が肩を抱き寄せ合って涙を流しておりました。
私は、それから、酔いが覚め、じわじわと私を蝕んだ苦しみを隠してずっとあくまでも普通の人間として生きて来ました。私は女学校を出た後、親の勧めで結婚し、子供を産み育てました。いわゆる普通の女としての仮面を被り続けたのです。ですが、心では他でもない彼女の願いですから、今日に至るまで彼女だけを想い続けて生きて来ました。
今でも、あの時、なんで一緒に飛び降りなかったのだろうと思うこともありますが、もう過ぎたことです。それに、もうすぐ彼女に会えますから、そのことを考えるのはいい加減やめます。

…これが私の犯した罪でございます。確かに私は、人を殺したのです。
世間の皆さま、長々と愚かな私の告白にお付き合いくださり、誠に有難うございました。
水無瀬家の皆々さま方、私のような者にもよくして頂いていたのに本当に本当に申し訳ありません。どんなに謝っても足りません。許されようなどとは決して思いません。本当に、申し訳ありませんでした。
また、残された私の家族には一切関係のないことですから、どうか、追及などはなさらないように何卒よろしくお願いいたします。

ユリヱさん、貴女の思う通りに、私は生きました。
貴女を愛し続けて、生きたのです。
世間の皆さまが、これから、その証人となってくれるでしょう。

ユリヱさん、待っていてくださいね。
もうすぐ、そちらへ行きますから。

某年 某月 某日   A病院にて記す        佐竹チヨ子

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