あれから、もういくつ寝たことか

もういくつ寝るとお正月。心新たに新しい1年を豊かに過ごそうと決意をする一日だ。本来は喜ばしく、楽しい一日になるはずだが、私が中学三年生のときだけは違った。父方の祖母が亡くなったのだ。

亡くなったといっても、長いこと病気をしていたわけでもない。むろん、餅をのどに詰まらせた、ということでもない。持病があるわけでも、風邪をたまたま引いていたわけでもない。見事なまでの心不全だった。

祖母は晩年痴呆の症状が進み、徘徊することが多くなった。河川敷をひたすら海に向かって歩いて行ってしまったり、遠い町内までお金を持たずに買い物に出かけたり。徘徊のたびに母親や父親が探しに出かけ、また徘徊のたびに交番から電話がかかってきた。

不思議だったのは、祖母は私たちと一緒に暮らしている家の電話番号を完璧に覚えていたのだ。私の実家に引き取られる以前に住んでいた故郷の電話番号は忘れてしまっているにもかかわらず、である。「子どもの物事となると、親はやっぱり忘れることができないんだね」と、母は言った。

私たちと同居するようになって何年経っても、祖母は自分の故郷にいた。ごくまれに「ここが故郷ではない」と気づき、「いつになったら帰るかね」と父親に尋ねたものだ。父親はやや苛立ちながら「もう帰らない」と祖母を叱った。それでも祖母はにこにことしていた。

祖母は非常に穏やかな人だった。怒ったところを一度も見たことがなかった。私たちが学校から帰ると決まって笑顔で出迎えてくれた。そんな祖母だったからこそ、痴呆が進み、状況が理解できないでいる姿を見て私もいら立つことが増えた。

中学三年生の正月。家族みんなで雑煮を食べた。両親と、私と、きょうだい3人と、祖母。7人で食卓を囲んだ。「これが幸せなんだな」とつくづく思った。

父と祖母を残して、母親と私たちが初詣に行っている間、祖母は逝ってしまった。私は大泣きした。悲しかったのもあるが、後悔の涙だった。なぜ、もっと優しくしてやれなかったのだろうか。なぜ苛立って当たってしまったのだろうか。祖母はいつも笑顔だったのに。祖母に怒られたことなど一度もなかったのに。

それから10年経ち、私は母方の祖父を見送った。今度もまた、同居していた祖父の死だった。このときも大泣きをした。けれども、後悔はなかった。きっと会うたびに笑顔で話ができていたからから。

私には母方の祖母が残っている。私にとって最後の“祖父母”だ。「その時」が来たら、私はどんな泣き方をするのだろうか。それまでは祖母に甘えていたいし、祖母から甘えられたい。

もういくつ寝るとお正月。ゆっくりと、しかし着実に月日は流れている。

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