見出し画像

温故承新で未来を共創する仕掛け人 中村伸一

 自分が尊敬した人に
 尊敬されるくらい努力や
 積み重ねができる人に
 運は味方する。
 ゲッターズ飯田@getters_iida

ゲッターズ飯田Twitter@getters_iida

同姓同名、「やまぐち総合研究所」中村伸一所長と出会ったのは、2009年3月。

そのコラボトークライブ会場にいて「地球探検隊」隊員になったワッキー(脇本 雄樹)から熱いリクエストがあって、今回、中村伸一所長にインタビューしvoicyラジオにゲスト出演してもらった。

「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」で同姓同名の中村伸一医師が出演したことがきっかけで次々と4人の中村伸一と繋がった。そこで閃いた。残り3人の中村伸一さんにもvoicyラジオに出演してもらおうと。そして、いつか1泊2日でも日帰り旅でもいい、「参加者全員が中村伸一という旅」をしてみたい。想像しただけで楽しそうだ。

今回の出演は一番最初に出会った中村伸一所長。所長は、やまぐち総合研究所(有)の代表取締役で経営コンサルタント。ここ最近の仕事で増えているのは、デジタル化の仕事の講演、一人起業のPRだという。所長はコラボレーションや事業承継を通じて「孤立に橋をかける人」だと思う。1,106回目から1回10分、全7回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい

所長は幼少時代は虚弱体質で部活にも積極的に参加できなかったが、小学校時代から補佐的な立場で「4学期目の級長」と言われ、人前に出るのが好きで目立っていた。先生にも好かれ、よく職員室に呼ばれて先生から相談され頼りにされた。

中学に入ると、音楽やアイドルに目覚めた。時代の流行に敏感でニューミュージックにも詳しくなり、ギターを弾けないのにエレキギターを買った。学園祭に向けてバンドを結成、ボーカルを務めたが本番で歌詞を忘れたこともあった。

銀行員になりたかった彼は商業高校へ進学した。山口県でコンピュータ研究でトップの高校だったが、山口市から1時間もかかる防府市まで通うことになって周りは知らない人ばかり、地域ギャップを感じて目立つのをやめようと思った。

大学はバンド「チューリップ」のリーダー財津和夫に憧れ、彼の出身の福岡県を目指し、福岡市の私立大学、九州産業大学に進学した。長渕剛が中退した大学であり、お笑いタレント江頭2:50と同学年らしい。

就職が決まったのは、卒業の1ヵ月前。大学でコンピュータを学んだ彼はSE、プログラマーを受けたが全て落ちてしまった。内定が決まった会社は営業職で「働きたくない」と思った。ガスの配管工のアルバイト先の人から紹介されて松下電器(株)のグループ会社(現パナソニックグループ)に就職した。配属先は、「やりたくなかった」営業だった。当時の彼はコンプレックスを抱えていた。

・お酒が飲めない
・デジタル系エンジニアではない
・自分に自信が持てない
・背が低い
・地方(山口県)を拠点に移動

その自分で弱点と思い込んでいたものを「逆転の発想」で好転させていったように思う。人に「買ってください!」が言えない彼は営業に対して苦手意識があり、入社初年、営業成績は最下位だった。そこで2年目から「できる先輩」を真似て、販売店に売り方を説明するプロセス、仕組みをつくると販売コンテストで全国1位の営業マンになった。時代はバブル景気絶頂期だった。報奨旅行(インセンティブツアー)アメリカ10日間で大企業の優秀な人と交流し、大いに刺激を受けた。

そして、バブルが弾けた。7年勤めた会社を辞めた。バブル景気の絶頂期と崩壊を経験していることが、後の所長の人生に大きく影響していると思う。彼はバブルが弾けて倒産した社長の苦悩を目の当たりにして「絶対に起業家にならない」と誓った。

イマイチ自分に自信が持てなかった所長は、28歳くらいから異業種交流会に参加するようになると、「税理士を目指したら」とある経営者に勧められ1年間勉強した努力は報われず資格は取得できなかった。さらに1年間、保険の代理店のセールス研修をやった。この空白の2年(1年の無職と1年の研修生)を彼は「人生の浪人時代」という。

ソフト会社のエンジニアが集まる勉強会に参加したことが転機となった。最先端の言葉が飛び交う中、直感的に「これからはインターネットでビジネスが始まる予感」がした。その中の一人から声がかかった。「起業するけど、うちに来ない?」

「絶対に起業家にならない」と誓った所長は31歳で3人で起業し専務取締役に就任した。1年目で資本金が底をつき始め、2年目からチーム一丸となって立て直しに取り組んだ。株式会社ファーストリテイリング(ユニクロ)と取引していた同級生が仲間に加わり、実績をつくりファーストリテイリングと契約を交わした。すると銀行の態度が一変、急にお金を貸してくれるようになった。

そして、代表取締役に就任し4年間、社長を続けたが孤独に悩む日々だった。「経営者の孤独」、俺も経験した。一人でいるときより集団でいるほうが余計に孤独を感じるものだ。社長に就任して2年半、M&A(企業の合併・買収)の話がファーストリテイリングから持ち掛けられたが社内に摩擦が生じ断った。ITバブルも弾けて経営難になると、昭和の経営の終焉を肌で感じた。

3年目、酒が飲めない彼は発散する場所がない。社長に就任して4年目、起業して6年目に倒れ、救急搬送中の車の中と病院で自分自身を見つめ直した。「このままではいけない。死ぬかストレス溜めて大病するかのどちらかになる」。毎日鏡を見るたびに顔に生気が失われていった。

そこで彼は決断する。社長から平社員になったのだ。3ヵ月くらいは気が楽になったが物足りない。時はベンチャーブーム。そこへ行政から「創業支援をやりませんか?」と言われ、「経営コンサルタントがやりたい!」と思っていた彼は、2005年、資本金300万円で有限会社を立ち上げた。彼は事業計画を立て直実に一歩ずつ歩める人。俺がメルマガで同姓同名の所長を知ったのはこの頃だ。

会社設立4年目から山口県内から東京や福岡に行くことも増えてきた。そこで2008年、山口県中小企業団体中央会に講演依頼された俺は、中央会で講演した翌日、所長とコラボトークをして彼と出会い、その年の7月、「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」に出演した医師(俺たちは院長と呼んでいる)も加わり、奇跡の同姓同名、3人の中村伸一トークライブを東京・四谷区民大ホールで行うことになった。会場からの質疑応答の時間になると、「困難をどう乗り切るか?」という質問に所長は、「そうきたか!?と思うようにしている」と答えると会場が湧いた。

各界のスペシャリストを山口県に呼ぶプロデュース活動も増え、俺も「地域創生」をテーマに所長に呼ばれて山口県宇部市役所主催の講演をした。所長が福岡県に行く頻度も上がると、すでに「マーケティング」の世界に自分が入り込むスキがないほど著名な人を多く輩出していた。そこで、「コラボレーション」の創出が自分の武器となると判断、この頃から「コラボレーション」をキーワードに動き出した。自分のため、人のためにやっていたことが結果的に、地域のためになっていった。

西日本を中心にセミナー講師として講演活動をしていた所長は、2020年から収入がゼロになった。事務所で一人で考えることが多くなった。同じ孤独という意味でつかわれているネガティブな「loneliness」 とポジティブな「solitude」の違いに注目した。寂しさだけでなく、その自由さを歓迎する意味も表す「solitude」を意識して、自分軸を持って前向きに行動し一人起業にこだわっていこうと決めた。すると、どこでも仕事ができるオンラインでの仕事が増えていった。リアルで動いて地域のキーパーソンと打ち合わせをして、より多くの人に知ってもらうオンラインでのメリットを享受し、バランス良く仕事をするようになった。

ベンチャー企業の人と会うと「所長と会うと元気が出るね」と言われ、彼は考えた。自分が目の前の話をしている時は調子の悪い時。調子のよい時は未来の話をしている時だと気づいた。Z世代の中学生と大学生の娘を持つ所長は、娘たちだけじゃなくて「Z世代全体がやりたいことができる環境づくり」という未来ビジョンを持っている。フォーカスしていたものが地域からZ世代に変わったのだ。それには、30代から40代に元気になってもらいたい。未来に繋がるリノベーションを考えると、Z世代を支えるアトツギベンチャーの育成と教育に目を向けている。

そこで、所長は「(故)ふるきを(温)たずね、(新)あたらしきを(知)しる、温故知新(おんこちしん)」から造語、「(故)ふるきを(温)あたためて、(新)あたらしく(承)うけ継ぐ、温故承新」を掲げ、技術や技能、伝統の継承、経営の継承など企業の承継問題のコンサルティングをしている。

さらにリスキリング(Reskilling スキルや知識の学び直し)、セカンドキャリア(育児や子育て後や定年退職後の人生における「第2の職業」)のお手伝いも、これからのプランに入れている。

家庭では、家族旅行やJリーグレノファ山口FCにハマって家族全員でサポーターとなり、良きパパでもある。色んなご縁からスポーツビジネスにも注目し、アスリート食とトレーニング、選手のセカンドキャリアにも関わっていきたいと考えている。所長の挑戦は、これからも続いていく。家庭も仕事も、30年先の世界をイメージしながら動く所長の5年後、10年後が楽しみだ。

noteの♡マークはnoteにアカウントが無い人も押せるので、「いいね」と思った記事に、♡を押してもらえると嬉しい。♡のリアクションが書く原動力だ!

 「カメ止め」を経て
 一番手に入れて大きかったものは
 シンプルですけど、
 戦略を考えてやるより
 自分の「好き」を考えてやるほうがいいって思いました。
 これは科学的にも効率的に考えても
 成果が上がりやすいんじゃないか
 映画『カメラを止めるな!』映画監督 上田慎一郎


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?