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第13話 へでもねぇわ!

スウィートブライド代表中道諒物語。ウェディングプランナーに憧れ百貨店を退職し起業。でも40歳で全てを失う大きな挫折。そこから懸命に這い上がりブライダルプロデュースの理想にたどり着くまでの成長ストーリー。※この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

2階の仕事部屋に入り、日記帳を広げた。

黒のモレスキンのノートブック。
ノートの角やマチの部分はボロボロになっている。

それは日記帳と言うよりはアイデアノートのようなもので、ページの隅には書きなぐったメモがぎっしりあり、これ一冊に当時の全てがあるように思えた。

オードリーウェディングの構想から売れるまでの5年間の記録。

『地域密着でいく、インターネットだけで全てをまかなう事はできるのか、情報サイトは新郎新婦に本当に必要なんだろうか、なぜ僕はこの企画をするのか、通り一遍ではなく僕個人の考えを前面に押し出したい、これから生きてく上でこの企画は僕の生き方とどうリンクしていくんだろう・・・』

これが日記の隅に書かれているメモの内容。
僕らしいと言えば僕らしいなぁと感じる。

2004年6月。

僕は百貨店を退職した。百貨店時代に副業で立ち上げたカウスボレアーリスというプロデュース会社は鳴かず飛ばずでいつしか風化していた。

「僕ならこんな結婚式をプロデュースします!」

カウスボレアーリスでは、たくさんの企画書を作って、神戸のレストランや式場に精力的に営業廻りをした。ほとんどが門前払いだったけど、10件行けば1件くらいは僕の話を聞いてくれた。

(僕が今、スウィートブライドに来る営業の人の話を門前払いせずに聞くのはこの時の体験からだ)

当時のカウスボレアーリスの企画は「音楽ウェディング」。ガーデンパーティーでプロミュージシャンがアコーディオンを弾きながら新郎新婦やゲストの間を練り歩くようなカジュアルで楽しい結婚式がコンセプトだった。

僕はディズニーのわんわん物語が大好きだったから、アコーディオン弾きながらベラノッテを歌うトニーに強烈に憧れてたんだ。

でもそんな結婚式はどのレストランも式場も興味を示してくれなかった。今思えば、これが最初の挫折だったかもしれない。

結局、カウスボレアーリスという存在は徐々になくなり、百貨店を退職した時点では何の事業プランもない状態だった。

何も無いまま2ヶ月が過ぎた。

2004年8月20日。

網干の親愛産婦人科病院。
ワイフの陣痛が始まり、昨日病院に入ってから丸一日たとうとしている。ワイフはギャーギャー叫ぶタイプの女性ではないから、苦しい声もあげず、ひたすら口をギュッとつぐみ、陣痛に耐えていた。

明け方、ようやく分娩室へ。
僕も青い看護服のようなものを着せさせられて一緒に入った。

まさか自分が分娩室に入るような男とは思ってなかったので、分娩室にいる自分が不思議な感じがした。

入ってすぐに長男が産まれた。

感動した。
僕のこれまでの人生で最も感動した瞬間だ。後にも先にもこの日の感動を超える事は無い。分娩室に入って本当に良かったと思った。

分娩室から病室へ移動すると、窓の向こうに素晴らしくキレイな青い空が広がっていた。

「この子の名前、そらにしよう」

そう言って、ワイフと2人で青空を眺めた。あの日の感動的な青空を僕は忘れる事はないだろう。

さて、しかし・・・、長男が生まれた時は僕は引きこもりの無職状態。キレイな空だね、なんて悠長に喜んでるようなご身分ではなかった。

失業保険は支給開始まで3ヶ月の待機期間があったから僕の場合は10月から翌年2月までの5ヶ月間支給されるという形だった。
だから都合8ヶ月、僕は全く何もせず、何も考えず、ただひたすら長男の布オムツを変え、洗濯して、ベランダに干すという一日を過ごす事になる。

まぁよくワイフは僕のそんな状況に文句を言わなかったものだと思う。この失業保険給付の間にワイフから小言を言われた記憶は一切無い。本当に感謝の存在なのである。

2005年2月。

失業保険給付の最後の月。

僕はようやく重い腰を上げる。ようやくだ。
さぁ、これから何をしよう・・・

この8ヶ月全く人に会ってなかったので、ひとまず人に会う事からはじめる事にした。
最初にアポをとったのは舞子で多国籍料理ブランジェールを経営している古田和樹だった。

僕は久しぶりにスーツを着て出かけた。
古田さんとの約束より少し早く舞子に着いたので、その時間までマクドナルドで時間を潰す事にした。

すごく緊張していた。

人と話をするのが久々な事はもちろんだけど、今の自分に全く自信がもてなくて自信喪失気味になってたから相手がこんな僕を受け入れてくれるのか不安で仕方がなかったんだ。

約束の時間になり待ち合わせ場所に行くと、真っ赤なアルファロメオスパイダーで古田さんは現れた。

「中道さん、お昼食べに行く?」
古田さんはそう言って僕を助手席に案内した。

着いた先は塩屋の海沿いのレストラン。
ここでランチをしながら雑談をした。久しぶりに人と会話したからか、僕の喉は30分で使い物にならなくなった。

(しゃべらないと声ってでなくなるんだ)

しばらくして、僕は本題を切り出した。

「これから何か事業を立ち上げようと思ってるんですけど、何をしたらいいか・・・。今はまだそんな状況なんです。古田さんから何かヒント教えてもらえないかなと思って」

無茶苦茶な質問である。
でもそんな無茶ぶりに古田さんは優しく教えてくれた。

「今からの時代、インターネットは必需だと思います。それからやっぱり地域密着かな」

とてもありがたいヒントだった。
古田さんはこの後も何かにつけて僕を助けてくれ、恩人のような存在になっていく。

古田さんと会った次の日。
僕は梅田にいた。午前と午後と2件アポをとっていた。どちらも百貨店時代にお世話になっていたアパレル系の社長である。

2人とも、僕は百貨店を辞めた後すぐにブライダルの会社をやってると思っていたようで、まさかあれから8ヶ月経ってまだノープランでまだ一歩も踏み出していない事にたいそう驚いていた。

昨日古田さんと話をして少ししゃべりが蘇ってきたので、今日は割と流暢に話をすることができた。
そして今日の2人にも古田さんと同じ質問をぶつけた。

奇しくも2人からも、「IT」「地域密着」のワードが出た。

「これから中道さん独りで闘っていく訳だから、これから流行りそうな分野は避けた方がいいよね。例えば介護系とか。その分野には今から大手がどんどん進出してくるから勝てっこない。できたら大手が撤退するような先行不安の業界で、でも無くならない業界がいいんじゃないかな。そういうのだと中道さん独りが生きていける隙間はあると思うよ」

(なるほど・・・)

僕は梅田から姫路へ戻る電車の中で、「IT、地域密着、あまりよくない業界」の3つのワードを延々と反復していた。

その日の夜。
僕は干し終わった布オムツを畳みながら、長男に母乳をあげてるワイフに相談した。

「昨日、今日と人に会ってきてね。いっぱい話した。久しぶりにしゃべったから声枯れてでんようになったわ。やっぱ引きこもってたらあかんよなぁ(笑)」

「お!ようやく社会復帰する気になったんや(笑)」

「でな、IT、地域密着、あまりよくない業界という3つのキーワードを教えてもろたんやけど、まだピンとこなくて・・・」

「もうブライダルはしないの?」

「ブライダルかぁ!それや!」

ワイフのボソッとしたひとことに僕はピン!ときた。

今日、時間潰しで入った梅田の文具屋で買った黒のモレスキンノートブック。僕はそれをカバンから取り出し1ページ目にこう書いた。

『IT+地域密着+あまりよくない業界=姫路の結婚式場情報サイト』

それは、まさに天から降ってきた。
僕が今から立ち上げる事業が決まった瞬間だった。

(今、僕が2階の仕事部屋で広げた日記帳は、まさにこの日記帳の1ページ目なのである。)

2005年3月。

当時住んでた英賀保のマンション。和室のローテーブルの前に正座し、僕はどんな社名にしようか考えていた。

モレスキンの無地ノートを広げ、なんとなく頭に浮かぶイメージというか響きを何度も反芻しながら、もうそこまで出かかっている何かを引っ張りだそうと頭の中で格闘していた。

そして、その時は訪れた。

オードリーウェディングという名前がすとーんと降りてきたんだ。不思議な感覚だったが、その時の事は今でもハッキリ覚えている。

「よし!これでいこう!」と、武者震いするような瞬間だった。

最初は姫路のデザイン会社にこの企画を持ち込み、プロのウェブデザイナーにサイト制作を依頼した。
そのデザイン会社にはサイトの運営を委託し、僕は営業に専念することになった。

姫路の結婚式情報サイト「オードリー!」の中道編集長というのが僕の最初の名刺の名前。

しかし企画立ち上げ当初の営業廻りは僕の気持ちに反して散々な結果だった。どの式場もすんなりと掲載はしてくれなかった。まだゼクシィも雑誌の売り上げがほとんどでインターネットのポータルサイトなんてまだ市民権の無い時代だった。

掲載料が利益の事業なのに、掲載してくれないというのはそもそも死活問題。ブライダル業界は今思えば保守的な業界で、「先行きあまりよくない業界」というキーワードで選んだ時点で、すでにこの状況は予知できたはずだった。
インターネットという新しい媒体にすぐに飛びついてくるような業界ではなかったんだ。

ある老舗の衣裳屋さんに営業に行った時。
「タウンページに載せてるから」と断られた。
「いえ、タウンページではなくて、ポータルサイトなんです!」

今では考えられないけど、当時はまだまだインターネット黎明期。
順風満帆なスタートという訳にはいかなかった。

2005年5月。

正式にオードリーウェディングのサイトを開設した。

開設当初はいい事なんてほとんどなかった。
毎月の売上は5万円くらいだった。

一番最初に掲載をしてくれたのは、老舗フレンチ「グランメゾン姫路」。支配人の水木優也さんは僕の一番の理解者で、「きっとこの企画は成功する」と心強い言葉でいつも応援してくれた。

龍野の花屋「ブレスフローラ」の本田さゆりさんを紹介してくれたのも水木支配人だ。この時から本田さんとの長い付き合いもスタートする事になる。

当時はイオンリバーシティに2社、山陽百貨店西ビルのキャスパに1社、御溝筋に1社、ブライダルプロデュース会社が店を出していてレストランウェディングのプロデュースが全盛の時代だったから、プロデュース会社にも掲載してもらっていた。

ドレスショップでは「ホワイトルーム」「ラビリンス」の2件、ブライダルエステは姫路ではなかったけど神戸のサロンを1件。

そんな感じのラインナップで、まだまだポータルサイトとは謳いにくい状況が続いていたが、出会った皆さんの紹介により徐々にホテルや式場等掲載企業が増えていく。
それでも大手の式場は掲載してくれなかったけど。

2006年に入った。
この頃からアクセスが急激に伸び始める。やはりインターネットは継続してなんぼだ。

「姫路 結婚式場」「姫路 ウェディング」などのワードで検索するとオードリーウェディングがヤフーの上位を占めるようになってきた。

検索で上位表示してくると、ようやく大手の式場も少しづつ話を聞いてくれるようになり、事業が伸びてきているという実感が湧いてきた。

このタイミングだと思った。

2006年8月。

サイト全体のリニューアルを行う事にした。
立ち上げからこれまではプロのウェブデザイン会社に制作してもらっていたが、このリニューアルより僕自身で制作する事にした。

オードリーウェディングは、1年ちょっとの序章期間が終わり、ようやくこれからが本編のスタートという感じだった。

オードリーウェディングのロゴも一新した。
デザイナー仲間のパソコンにインストールしてるフォントを片っ端から見せてもらい、僕は「モトヤアポロ」に出会う。

このフォントは僕のイメージそのものだった。

この日以来、社名ロゴの他全ての社内資料を「モトヤアポロ」に統一。そしてコーポレートカラーをライトグリーンに決めた。
ブライダル業界はピンクが定番。だからグリーンにする事は僕の中では斬新な事だったんだ。

ポータルサイトは式場の紹介がメインだから、各式場ページのプラットフォーム作りが命になる。それが出来たら、ようやく各式場の紹介記事を作っていくようになる。

画像と文章、アクセスマップなど、普通のホームページと違いボリュームがすごくてポータルサイトのリニューアルはなかなかに大変な作業なんだ。

昼夜問わず、僕はサイト制作に没頭する。

2006年9月1日。

僕はこの日も朝からパソコンとにらめっこ。完成が見えてきたからラストスパートに入っていた。

お昼頃、次男の出産で里帰りしているワイフから陣痛がきたので病院に行くという連絡が入った。
2年前の長男の出産の時は、病院に入ってから分娩まで丸一日かかったから、今回の次男の出産も明日の朝くらいかなぁと思いながらデザイン作業を続けた。

16時。
義姉から電話が入る。

「りょうくん!そろそろ分娩室入るからすぐおいで!」

「おぉ!早いなぁ!すぐ行きます」

明日と思ってたからビックリした。
出産は人間の神秘だ。いつ産まれるかなんてわからないものなのである。

ちょうどこのタイミングで、サイトのリニューアルが完了した。(ナイスタイミング!)
僕は車で10分のところにある親愛産婦人科病院に飛んで行った。

まだ産まれてなかった。(セーフ!)

向こうのお母さんとお姉さんが廊下の長椅子に座っている。僕の姿を見た2歳の長男が走ってきた。

分娩室のバカでかい引き扉の前で僕は長男と手を握り立っていた。

「そら、もうすぐ弟産まれるぞ。楽しみやな」

「うん!」

その時だった。
「おぎゃぁ〜おぎゃぁ〜」

「そら!あの泣き声きっとそうやぞ!」

僕は長男の手をギュッと握りしめた。
バカでかい引き扉が開き先生がでてきた。

「お父さんですか?元気な男の子ですよ」

長男を義姉に預け、僕だけ分娩室に入った。
やれやれという安堵の表情のワイフ。その横に次男がいた。

名前は「はると」と決めてはいたけど、陽音にするか陽翔にするかはまだ決めてなかった。
産まれてきた顔を見た瞬間、僕の心は決まった。

「音にする」

「わかった」

ニッコリ笑うワイフの横に難しい顔で泣いている陽音がいた。

病室に移動すると、親族が集まってくる。
お昼になり、一度親族はそれぞれ家に戻った。

病室のテレビはインターネットが見れるようで、僕はヤフーのサイトを表示して検索窓に「姫路 結婚式場」といれた。

検索トップに、オードリーウェディングの文字。
それをクリックすると古いホームページが表示される。僕はアドレスの最後をindex2.htmlに修正する。すると、さっき完成したばかりのホームページが表示された。

僕は誰よりもまずワイフに見てほしかった。

「どぉ?ロゴマークも全部新しくしたんやで。オッシャレ〜になったと思わない?」

「いいやん。じゃこれからばんばん儲けてよ」

「おぅ!任せて!これは間違いなく売れるわ」

「アハハ、期待してるわ」

こうして、完全に僕独りでのオードリーウェディング事業がスタートする事になった。
夢いっぱい、浪漫いっぱい、愛情いっぱいのスタートだった。

モレスキンのノートブックには興奮いっぱいの大きな文字でページいっぱいにこう書いていた。

『ロックだぜ!』

それからのモレスキンに書いてた日記はジェットコースターのようだった。跳ぶ鳥を落とす勢いで進む時もあれば極端に落ち込み涙にくれる日もある。

それでも僕が何とか踏みとどまって生きてこれたのは、オードリーウェディングがあったからだ。

僕は僕が作ったオードリーウェディングに寄りかかり、時には抱きついて、生きてきた。どんな苦しい事があってもオードリーウェディングがあれば僕は救われたんだ。

日記を読んでると、僕がどれだけオードリーウェディングに助けられてたかわかる。

もはやオードリーウェディングは僕の人生そのものになっていたのかもしれない。

それから3年後の2009年9月。
僕はそんな大切なオードリーウェディングを失った。

日記を読み終えた僕は、モレスキンのノートを閉じ、大きくため息をついた。何とも言えない気持ちになった。

やっぱり僕の中でオードリーウェディングはあまりに大きな存在だと改めてわかった。手放してもう半年以上になるのに、まだ僕はオードリーウェディングの呪縛の中にいるようだった。

女々しい自分に腹が立つ。

(ちっ、くそっ!)

吹っ切らなきゃいけないと思った。

僕は階下に降りダウンジャケットを羽織り、真っ赤なスペシャライズドのクロスバイクにまたがった。

家から南へ30分。
新舞子の海水浴場に来た。冬の新舞子は人はいなく静かだ。僕は松の木の下のベンチに座り、熱い缶コーヒー飲みながら色んな事を考えた。

波の音と汐の香りが僕を包み込む。

飲み終えた缶コーヒーをベンチに置き、僕は砂浜に出た。波打ち際ギリギリまで行ったところに立ち、しばらく水平線を眺めた。

そして大声で叫んだ。

「これくらい、へでもねぇわ!」


14話につづく・・・



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