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【うつ病と共存した35年間】#2

早速サボっていた?いや忙しかったことを理由にさせてください・・ブログ再開直後から猛烈忙しくなってしまいました。そこの内容は追々書いていこうかな。とても充実した半月だったので。

ということで、僕自身の【うつ】に関して振り返っていこうと思います。

8月から仕事を休みに入り休業補償金で今は生活をしています。約半年の間、まず僕自身なぜ、このような状況になってしまったのか?どうすれば治るのか?そんな事をずっと考えてて。

いざ仕事を休んでみてもやる事がなくなって考える時間だけはものすごく増えてしまって余計に自分を追い詰めてしまうこともあったけど、まずは今までの自分、過去を振り返ってみようと思った。

すると仕事のことだけではなく育ってきた環境や経験してきたこと、幼少の頃までの記憶やプライベートでの問題が大きく関わってきていることに気づくことができました。

なので一旦ここでは幼少期からの記憶から振り返っていきたいと思います。

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↑福重の室見川河川敷 左側の大きな団地で育ちました


僕は昭和61年1月

福岡県福岡市西区の福重という町で生まれた。父はトラックの運転手、ガソリンを運ぶタンクローリーに乗ってて当時かなり給与もよかった・・らしい。福重という町は7歳。小学校2年生の1学期まで生活をしました。

当時はなんとも違和感としては持ってなかったけど

こんなものなんだと自分の中に押さえ込んでたのかな?35歳になって記憶も断片的な物しか残ってないけど幼稚園の頃、両親は夜中によく喧嘩をしていました。内容も金銭関係のことが多かったかもしれない。

当時バブル崩壊の影響もあって父の給料は激減、そして悪いことが重なって父方の祖父が脳梗塞が原因で左半身不随になって介護が必要になった。

僕には2つ年上の姉がいる。いつも姉弟で怯えながら喧嘩中は布団の中で隠れていた。

父は仕事柄、朝は早く帰りも遅くほとんど会話をする機会がなかった。一緒にいてすごく居心地の悪い。話しかけるのも恐い。

一緒に居るとどうすればいいか分からないし市営団地の狭い家だったから逃げ場もない。

母は僕が幼稚園の頃に祖父の介護が必要になったことと、父の給料が減ったことからホームヘルパーの仕事を始めた。たまに一緒に連れていかれることもあったけど

幼稚園から帰宅すると1人な時間も増えてった。

あっ、幼稚園から鍵っ子でした!

バスでの送迎はあったけど決まった停留所があってそこをいつも一人ですたこら5分ほどか歩いて登園と帰宅。(現代じゃありえない光景w)

周りの子は親が居たりするし、帰ってもすることなくてやっぱり寂しい気持ちが大きかったり。

あと姉は受けてきていた愛情を自分は受けれてないって思いがもの凄く大きくて小学校に入る頃には姉のことが嫌いになっていた。

だからなのか『お姉ちゃん』と呼んだことがありません。

当時の写真が実家にあって先日見る機会があったのだけど幼稚園に入る頃には僕の笑顔は消えていた。当時思っていたことでこれだけは覚えてる

『家で、親の前ではイイ子でいなきゃいけない』そんな思いは多分大人になるまで、ずっと持ち続けてしまっていたかもしれない。

幼稚園や学校に行っている時間が素の自分でいられる居心地のいい環境になっていったし小学校に入ってからは極力家に帰らなくていいようにしていた。

でもその中にも良かったことももちろんあって。

それは次回書こうかな。


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