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悔しさの幼少期、革命と失望の青年期、そして今年、僕は30歳になりました。


熊本県の小代焼中平窯・西川智成です(^^)
今年の3月に30歳になりまして、自分の人生を振り返ろうと思います。

下記は長い長い独り語りとなりますが、お付き合いいただけますと幸いです。





幼少期

ヘビと焼き物と本が好きな小学生


私は熊本県の最北、有明海と福岡県に接する荒尾市で生まれ育ちました。


夏の荒尾干潟(有明海)



ちなみ7歳上には姉がおりまして、ギリギリ小学校が被らなかったために学校行事の度、小学校と中学校~高校を行ったり来たりした両親は大変だっただろうなぁと思います。

現在、姉は結婚して東京都在住です。

私の生まれ育った荒尾市は梨と海苔が特産で、グリーンランドという遊園地が目玉の田舎町です。



私は荒尾市の海側ではなく、山側で育ちました。

その山の名は小岱山(しょうだいさん)。
私の父は小岱山で400年前に始まった焼き物『小代焼』の窯元でした。


幼い私はヘビやカエルが大好きな子供でして、
学校が終わっても何時までたっても家へは帰らず、しびれを切らした家族が通学路を探しに来る頃には大抵、畦道にランドセルを投げ出して、地べたに座り込んでは、田んぼの中のホウネンエビやらオタマジャクシやらを何時間でも眺めているのでした。


そして、幼い私のもう一つの好きなものは焼き物でした。

いつでもロクロや釉掛けに追われて忙しくしている父親は、私に粘土の塊を渡して
「なんか作って遊んでいなさい。」と言うのが常でした。

私は無心で、小学校の帰り道で見つけたヘビやカエルの姿を作っては、
「なかなか上手じゃないか!」と両親に褒められて喜んでいました。


幼稚園の頃から父の窯焚きを手伝い、1300℃を超える炎に向き合う父の姿を見て、幼いながらに父を誇らしく思っていたものです。
(今になって思うと、父の窯焚きの邪魔をしていただけなんですがね…)


幼稚園の頃に作った亀 ※右側が頭です。



そして、何がどういうわけだか、本を捲ることも好きでした。

ヘビやカエルと焼き物が好きな私は当然、
『生き物図鑑』と、父が集めた『昭和の陶芸本』を読むようになりました。

5歳~6歳の頃には私の興味関心の向かう先が、すでに決まっていたようにも思います。



私の父は小代焼窯元


小代焼は熊本県北部の小岱山(小代山)で400年前に始まった陶器であり、
江戸期から現代まで主軸となる技法が変わっていないという、全国的に見てもかなり珍しい焼き物です。

実は、
伝統的な焼き物の多くは安土桃山期~江戸期~昭和の間に大きな作風の変遷があり、昭和の安土桃山再評価の流れの中で、昭和の頃に改めて安土桃山期~江戸初期の作風を復活させた産地が数多くあるのです。

本当の本当に400年間、主軸の技法が変わらないというのは小代焼の大きな特徴です。


江戸中期の小代焼の抹茶碗 (通称:古小代)


実は西川家は代々陶芸を生業としてきたわけでは無く、窯元としては父が初代の比較的新しい窯元です。

衰退期を幾度か挟みながらも、作風や技法は大きく変わらずに受け継がれ、途絶えることなく続いてきた小代焼ですが、
小代焼を江戸初期に始めた牝小路家と葛城家は既に廃業しており、現在あるほとんどの小代焼窯元は昭和~平成の間に開業しました。


父は熊本県南部の一勝地焼で修業を開始しましたが、荒尾市で生まれ育ったためか、
「故郷の焼き物“小代焼”を作ろう!」という想いがあったのでしょう。
この件は、もし父に話を聞ければ後日詳しく書きたいと思っています。


現在の実家は10数年前に工房を改装し、きちんとしたギャラリーを持っていますが、私の幼い頃は展示場とロクロ場の境目が曖昧でした。

父はロクロを回しながら接客し、その向かい側で私はヘビかカエルを作っているというのが日常風景でした。


その環境で育ったことで今の私は『作って売って生活する』という、
まるで中世のような、とてもシンプルな生き方を自然と受け入れているのだろうと思います。


そして、
熊本県の小学校の教科書には、必ず郷土の文化・歴史の項目に小代焼が載っていると決まっていました。

私が小学生の頃は、社会科資料集の片隅に父の作った壺が掲載されており、それは青小代の美しい長壺であったと記憶しています。



「僕のお父さんの誇らしい仕事を、先生が同級生に教えてくれるんだ!」
と得意気になって、社会科の授業が今か今かと待ち遠しかったものです。

小代焼が紹介されるの授業では内心、それはそれは鼻高々でした。



小学校低学年から川遊びに夢中


生き物好きな私は、小学生の頃には魚釣りにハマりました。
小学校が終わると全速力で自転車をこいで、近所の菜切川へと向かう毎日です。


7歳の頃
この日に釣れたのは亀でした。



エサは米粒か、調達する時間があればミミズを捕まえてカワムツやドンコを釣りました。

熊本県荒尾市の方言では
カワムツはハエ
ドンコはドンカッチョ
と言います。


特に、
ミミズをエサにしたドンカッチョ釣りは子供ながらにスリリングな時間でして、しつこくしつこく川辺を釣り歩いたものです。

コツコツッ コツコツッ
ゴッゴッゴッ

と、棹先に当たりがあると心臓がドキンドキンと鳴りました。



そして、
吊り上げたドンカッチョの姿を観察しては、粘土で作るのでした。

私はドンカッチョやガマガエルのような顔立ちの生き物に魅力を感じていました。


小学生の頃に作ったドンカッチョ。



家業を悪く書いた本


焼き物と本が好きな私は、当然のように父の集めた陶芸関連の本を隅から隅まで、隈なく読んでいました。

当時の私は昭和の陶芸関連の本が大好きで、大大大大大っ嫌いでした。


今では優しい文章を使い、日本全国の焼き物の産地を紹介する事が当たり前です。

しかし、昭和の本にはコンプライアンスもへったくれもありません。


実家にある本の、どの小代焼の紹介ページを読んでも

・土臭くて野暮ったい
・熊本県の下手物陶器

といった具合に、私の誇りであった父の仕事は、本の中ではこれでもかと馬鹿にされ見下されていました。

珍しく褒めたかと思えば
ゲテモノ陶器の小代焼にしては、例外的に良い作品である。
という趣旨の解説を書かれる始末でした。

中央部分「小代焼としては、甚だ珍しい上作」との記述。


私は姉の影響で、週刊少年ジャンプの『地獄先生 ぬ~べ~』というマンガを読んでいたのですが、話のオチとしてゲテモノ料理が出て来る回があるんです。

私は「ゲテモノ」という言葉を
「他人が目を背けるほどに醜い、悪い意味で常識外れで突飛なもの」だという意味だと認識していました。


父の仕事、西川家の家業を誇りに思っていた私にとって、こんなに悔しいことは他にはありませんでした。

本が大好きな私が、本に馬鹿にされていたんです。

しかし当然、当時の幼い私に出来ることは何も無かったのでした…。



「小代焼は歴史が無い」


小代焼に限らず、私は焼き物そのものが好きでしたので、他の窯元へも親族や知り合いに連れて行ってもらいました。

あれは小学3年生の時の出来事です。

H焼で修業をされたS窯さんの工房兼展示場に、知り合いのおじさんに連れて行ってもらいました。
H焼は茶陶で知られ、特に抹茶茶碗に関しては使うほどにその風合いが変わることで有名でした。

全国でも三本の指に入る抹茶茶碗の産地であり、純粋に焼き物好きの1人としては私も大好きな陶器です。



展示場を見せていただいていた時、
ふいに窯元のご主人から

「H焼は茶陶として全国的にも有名な素晴らしい美術品だけど、
小代焼は大した歴史も何にもない焼き物だね。」

と言われたんです。



今なら怒りを込めて言い返すでしょうが、
まだ自分自身で作陶をしていない幼い私は何も言い返せずに、肩を落として知り合いのおじさんの車に乗り込みました。

とてもとても蒸し暑い、日差しのギラギラとした夏の日でした。




「本の中でも現実でも、お父さんの仕事は馬鹿にされるんだ…」




と、ただただ悔しくて、
知り合いのおじさんの車に揺られながら、
私の一番の誇りでありながら、陶芸業界からは馬鹿にされ見下されている、父の待つ家へ帰るのでした。



青年期

少年から青年へ


子供の頃に習字とスイミングと少林寺拳法を習っていた私は、
いつの間にか高校生となり、美術系大学への進学を考えるようになります。

ちなみに習字と少林寺拳法はそれなりに長く続きまして、どちらも有段者です。

少林寺拳法・黄色帯の頃の写真
最終的には黒帯を取得しました。


高校時代の家族旅行の際に佐賀の唐津焼に感動していた私は何となく、佐賀県へ関心が向いていました。

当時の佐賀大学には『美術・工芸課程』があり、焼き物の勉強をしながら広く美術工芸分野を知ることができると知り、佐賀大学への進学を決めました。


ちなみに佐賀大学は私の卒業後に
『美術・工芸課程』から『芸術地域デザイン学部』へ名称を変えて規模を大きくし、陶芸分野は私が通っていた頃とは比べ物にならないほど設備が充実しています。

ホントに、後輩たちが羨ましい限りです。

そして、その頃にはパソコンやスマホが当たり前の時代となっていました。
私はガラケーのままでしたが、同級生達はスマホを持っていた気がします。



ウソだらけのネット情報に怒り


その当時、ネット内の小代焼の情報はひどい物でして、
歴史に関しては目も当てられないほどめちゃくちゃなんです。

そして、そのウソが書かれたサイトが一番上に表示されていたため、家業の小代焼を誇りに思う私は、大変な怒りを持ってパソコンの画面を睨みつけていました。


専門的な話になりますが、
小代焼は細川家の肥後(現在の熊本県)入国をきっかけに江戸時代初期に始まった陶器です。


しかし、「小代焼は加藤清正をきっかけに始まった」という説がネット上には溢れ返っていました。
細川家説より加藤清正説の方が時代は古いですが、歴史は古けりゃいいってもんじゃありません。



しかも、加藤家説には信頼のおける文献も物証もなにもなく、
「人づてに、こんな話もあるらしいって聞いたよ」って程度の根拠なのです。

歴史の根拠としてはペラッペラの薄皮のようなものです。


一方、細川家説には江戸期当時に書かれた文献が多数残っており、確かな物証である窯跡も熊本県南関町に存在し、窯跡周辺からは古い小代焼が発掘されています。


瓶焼窯跡・熊本県南関町
現在発見されている中では最古の小代焼窯跡



小学生の頃に「小代焼は大した歴史がない」と言われた私にとって、
『正当で正確な小代焼の歴史の情報』は何より重要だったのです。

それは今でも変わっていません。


しかし、私はこの時点でもまだ歯嚙みするばかりで、正確な情報を発信する手段を持ちませんでした。

大学生の時点ではホームページやInstagram、そしてこのnoteを運営していない当時の私にとって、世の中に正しい情報を発信するには、
「テレビに出るか・本を出版するか・講演会を行うか」しか思いつかず、
何処にでもいるようなただの一学生であった私にとって、それはどれも手の届かない手段ばかりでした。



「あの民陶ね…」


私が大学1年生の頃、窯芸室(佐賀大学の陶芸ゼミ)では『唐津プロジェクト』と称した活動が行われており、唐津焼を中心に佐賀県の若手作家を支援する勉強会が活発に行われていました。

私は個人的に『唐津プロジェクト』の勉強会に混ぜていただくなど、度々お世話になっており、古唐津の陶片のサイズを測る作業を手伝ったりしました。

古唐津のいくつもの陶片に直接手で触ることができ、とても充実した時間でした。


そして『唐津プロジェクト』の研究員さん達に連れられて様々な陶芸作家、窯元へお邪魔する機会を得ました。
その経験は、現在でも私の大きな財産となっています。


そんなある日、
『唐津プロジェクト』の研究員さんと一緒に、Kさんのお宅へお邪魔しました。

Kさんは陶芸業界では超がつく有名人で、私も陶芸専門誌やテレビ(NHK)で度々お見掛けしておりました。
(※本人の名誉のために本名は書きません)

有名人に合ったことで多少緊張していた私ですが、気さくに話してくださるKさんのおかげで会話が盛り上がってきました。


そんな時、Kさんから
「君はどこの出身なの?」
と質問されたので、

私は
「熊本県の小代焼が実家です!」
と即答しました。


その瞬間、不自然な沈黙が数秒あり、口を開いたKさんは

「…あぁ~、、…はいはい…あの民陶ね…」

とおっしゃり、明らかにその空間の熱量が下がりました。
これは言葉では説明しがたい、微妙な雰囲気の変化でした…。


民陶とは、
特権階級の庇護を受けた茶器や、献上品などの高級品ではなく、
農民などの一般民衆が普段使いするような安物陶器、という意味です。

そうです。
ちょっと前の時代までは、ゲテモノという名で呼ばれていた器のことです。

おそらく沈黙の間に適切な言葉を選ばれたのでしょうが、私にとっては
「はいはい、分かった分かった、君はゲテモノ屋の生まれなんだね。」と、
陶芸業界で著名人であるKさんに言われたことと同義でした。


あれほど盛り上がっていた会話はその瞬間からピタリと止まり、私には
「…あ、実家が小代焼って言ったから、僕は相手にされなくなったんだ…」
と分かりました。


帰りの車の中で私は、
小学3年生のあの時に「小代焼は歴史も何もない焼き物だ」と見下された蒸し暑い夏の日のことを、何度も何度も思い出していたのでした。

18歳となった青年の私はまるで、惨めな小学3年生のあの日あの時に、
強制的に引き戻されたかのようでした。



佐賀大学図書館で運命の出会い


私は中学生・高校生になってからも、相変わらず陶芸の本が好きでして、
加藤唐九郎氏『やきもの随筆』
濱田庄司氏『無尽蔵』
などを学校や塾の休み時間に読んでいました。


加藤氏『やきもの随筆』



特に加藤氏の『やきもの随筆』には中学生の頃に出会い、30歳の今でも折に触れては読み返している本です。
私の人生の骨格となっている1冊と言えます。




高校1年生の頃には濱田氏の『無尽蔵』を購入し、
まるで野の花のような、素朴で飾らない文章へ好感を抱いていたものです。


高校1年生の頃に読んでいた濱田氏『無尽蔵』



思い返しますと、
入学したばかりの高校1年生の身体測定で『無尽蔵』を片手に持ち、体重測定や身長測定のほんのちょっとした空き時間に本を読んでいた私は、少し変な目で同級生や先生から見られていたように思います。


そして、
様々な陶芸関連の書籍の中で、とある話題となると、共通して登場する人物がいました。


その話題とは民藝(民芸)、その人物の名は柳宗悦。

柳氏は思想家であり宗教哲学者であり、民藝運動の父であります。

その大まかな思想や運動の趣旨、主要人物(濱田氏、河井氏、リーチ氏、富本氏などなど)のお名前は把握していた私ですが、
何故だか、柳氏が直接書いた文章にはあまり触れずに大学生になりました。



幼少期から度々、家業の話題で嫌な思いをさせられていた私は、
「民衆のための工芸」というキーワードをふと思い出し、佐賀大学図書館で貸し出されていた柳氏の著書、

『工芸の道』

を手に取り、パラパラと数ページ捲って、そして、心が震えました。



さあさあ皆様っ!  この瞬間からっ!
私の中で革命が始まりますっ!


今まで
「ゲテモノ」「安物」「土臭い」と見下され蔑まれてきた器たちが、
「用の美」という武器を手に取って、一斉に反撃の狼煙を上げたのでした。

柳氏の言葉は私にとってあまりに雄々しくて逞しくて…、
私の心は感動と高揚感に満たされて行きました。



『工芸の道』という名の武器を手にいれた


佐賀大学の学生時代を通して、
未だに付き合いのある友人や、人生の分岐点に影響を与えてくれた先輩には出会いましたが、
「焼き物のこと、家業のこと、小代焼のこと」に関しては、心の中はずっと一人ぼっちのままでした。


そんな時に、
本の中の柳氏は、惨めな私に救いの手を差し伸べてくれたんです。

小学3年生の、
あの日あの時の悔しい思いを抱えたままに青年になってしまった私の心を、ありのままに、その全てを救い上げてくれたんです。


そこから大学では、失礼なことに座学の授業は上の空、
授業が終われば図書館へ駆け込み、柳氏の言葉をひたすらノートに書き写す生活が始まります。

私は『民藝教・柳宗悦教』の敬虔な信者となったのです。


大学2年生の時のノート
日付は1月1日~1月2日

それと同時に、若干の疑問点は感じていました。



・柳氏無き後『誰』が『正しく、健康的で、美しい民芸』を見定める資格があるのか?

・名もなき品物(雑器)に対してあれほど饒舌なのに、個性を発揮した民藝作家(濱田氏や河井氏が筆頭)に対する妙な歯切れの悪さは何か?

・なぜ陶芸文化が花開いた安土桃山期の織部、瀬戸、志野、唐津、伊賀、備前などを無視するのか?



しかし、
やや『工芸の道』という聖書に引っかかる箇所はあるものの、それが柳氏への畏敬の念を無くさせる程ではありませんでした。



僕を置いてけぼりにして、唐突に終わる革命


柳氏を心から尊敬し、自身を救ってくれたと感謝していた私はネットカフェに泊まっては宿代を浮かせ、各地の民藝館を訪れる旅をしました。

待ちに待った
民藝館を訪れるその日、私は胸を高ぶらせながら民藝館へと走りました。



小学3年生のあの日から、ずっとずっと一人ぼっちだった私は

「やっと!やっと!
ようやく仲間達に会えるんだ!

今までさんざん蔑まれ、馬鹿にされ、見下されてきたゲテモノ達よ!

私も一緒に戦おう!

一般庶民の生活が、普段の使いの“用の美”を掲げた器達で満たされる!

そんな美の王国を私も一緒に作るんだ!」

と興奮していました。




‥‥しかし、私の革命は突然、この日を境に終わります。




「革命の朝は絶対に来ないのだ。」

と、とある器に告げられる事になりました。




興奮気味に民藝館へとやって来た私は、とある大皿の前で足が止まります。

それは益子の巨匠・濱田庄司氏作の大皿で、直径50㎝は超えようかという堂々たる大作でした。

当時の展示室では、同じようなサイズの濱田氏の大作が何枚も並べられていました。

そして、私はその場から動けませんでした。




動けないというより、膝から崩れ落ちそうになるのを踏みとどまっただけかもしれません。




その大きく、力強く、堂々たる大作は、私に言いました。

「俺はそこらの一般庶民に家庭料理を盛られるつもりも、
小麦粉を入れられて饂飩だか素麵だかの捏ね鉢になるつもりも、
田舎の民家の庭先で、睡蓮鉢やメダカ鉢になるつもりも、

はじめっから毛頭無いのだ。

俺は鑑賞するためだけに作られた、高価な高価な美術品だぞ!」

と。




民藝館で出会った、その堂々たる大作は最初っから、
ガラスケースに入れられ、芸術品として飾られ、鑑賞するためだけに作られた高価な美術品だったのです。



その姿が堂々としてあまりに美しく、
全ての事柄から力強く独立していればいるほど、一般庶民の普段の暮らしからは遠い位置にいるのでした。



講演会での大きな落胆


民藝館へ足を運んだ日と時期を同じくして、私は民藝(民芸)や柳氏に関する講演会へも、積極的に県外まで足を運びました。

そして、
その参加した全ての講演会は、私を大いに失望させるものでした。


柳氏の言葉に感動していた私は、講演会へ参加すれば
・『工芸の道』に連なる柳氏の著書の紹介。
・柳氏が残した言葉に対する現代的で深い考察。
・柳氏無き今、本気でこの思想をどう発展させるべきか。
を知ることが出来ると勘違いしていたのです。

今思えば、あまりに若くて真面目すぎました。


さらに、私が常々気にかけていた疑問

・柳氏無き後『誰』が『正しく、健康的で、美しい民芸』を見定める資格があるのか?

・名もなき品物(雑器)に対してあれほど饒舌なのに、個性を発揮した民藝作家(濱田氏や河井氏が筆頭)に対する妙な歯切れの悪さは何か?

・なぜ陶芸文化が花開いた安土桃山期の織部、瀬戸、志野、唐津、伊賀、備前などを無視するのか?

上記の答え、
贅沢は言わないからせめてヒントを欲していました。


しかし、
参加したいくつかの公式な講演会の内容は、とてもそんなレベルに達していませんでした。



食費を削り、宿代を浮かせ、電車を乗り継いではるばる大阪へ聞きに行った講演会は、
当時の日本民藝館の学芸員さんと、民芸派作家として有名なM氏の対談でした。

学芸員さんは対談時間の半分ほどの時間を使い、柳氏や民藝(民芸)に一切関係のない自分の生い立ちや学生時代の話を長々とし始めました。

日本民藝館の学芸員ともあろうお方が、柳氏のお名前を一度も出すことなくダラダラと1人語りを始めたことで、私は早速イライラし始めました。

M氏の話はリアルな制作現場を知ることができたので幾分マシでしたが、最終的にはお2人でとりとめのない与太話を始める始末。


九州から大阪へ、
わざわざ話を聞きに行った私は非常に怒り、深く失望し、そして落胆しました。


それ以降、民藝(民芸)の講演会へは二度と足を運んでいません。
おそらく今後も行かないでしょう。



用を殺す価格、あまりに高価な土瓶


講演会や高級品の大皿に打ちのめされてボロボロの私ですが、
まだなんとか…、幽かな希望はありました…。

濱田氏は代名詞である流し掛けの大皿以外にも、
土瓶や醤油差し等の日常使いの器も制作されてらっしゃったのです。





そして、
民芸理論の崩壊を経験して瀕死の私は、濱田氏の土瓶の価格を知ることになりました。

民藝教・柳宗悦教の敬虔な信者としての私は、濱田氏の土瓶にとどめを刺されて死んだのです…。


濱田氏作の土瓶





濱田氏はご存命中、安価な土瓶が三銭程度であった時代に、自作の土瓶をその300倍~500倍の値段で販売していたと言うのです。

つまり当時、濱田氏は自作の土瓶を9円~15円で売っていました。




これを現在の感覚に置き換えましょう。
某メーカーの量産ティーポットは税込2,500円です。


その価格の500倍は、なんと
税込1,250,000円となります。


因みにティーポット1個で2,500円というのは、現代の手作り陶磁器を制作する立場から見ると、考えられないほどの激安です。

上代が2,500円ですので、作り手に支払われる下代は1,000円~1,500円前後と見て良いでしょう。




たった1,000円~1,500円の賃金で、ティーポットを作るために、

粘土を準備して粘土を捏ねてトンボとヘラ(コテ)となめし皮と切糸を準備してロクロで胴体と蓋と注ぎ口を挽いて半渇きにして蓋を削って胴体を削って蓋のツマミを作って蓋に空気穴を空けて茶漉しを作ってパーツを組み立てて胴体にハンドル(取っ手)を取り付けて乾燥させて窯詰めして素焼きして窯出しして釉薬を溶いて釉薬の濃度を調整して釉薬を掛けて蓋と胴体の接地部分の釉薬をスポンジでふき取って再び窯詰めしてゼーゲルと色見(あげて見)を準備して本焼きして冷まして窯出しして失敗作は割って不燃ゴミの袋に詰めて完品は底をサンドペーパーで擦って洗ってタオルで拭いてミラーマットと新聞紙で包んで割れないように配慮しながらダンボールに梱包して納品書と請求書を書いて「なんか思ってた色と違いますね」というバイヤーの言葉をグッと飲み込みつつメールのやり取りをして納品先へ自費で発送するなんて、

安すぎます。




ほとんどの手作り陶磁器の制作者は、
下代1,000円~1,500円でティーポットを制作して欲しいと話を持ちかけたバイヤーには笑顔で対応しつつ、

「おいてめぇ、俺をナメるのも大概にしとけよ!」

と内心ではカンカンに怒りながら依頼をキッパリ断るはずです。





税込2,500円のティーポットは、現代における安価な土瓶と言って問題ありません。





つまり、
15円の土瓶を売るという行為は現代の感覚で言うと、
100万円超えのティーポットが「用の美」「民衆の美」「健康の美」と称して売られているようなものだったんです。




そのあまりに高価な土瓶は、
産地周辺の台所での普段使いなんぞには目もくれず、一般庶民の遥か遥か上空を一っ飛び、慎ましい一般人から茶を入れられることや、ましてや湯を沸かすために直火に掛けられることなんて有るはずも無く、都会の富裕層の台所さえも軽々と飛び越えて、ロクロでくるくると回されていた無垢な粘土の塊であった時から、庭の御池で錦鯉でも飼っているような家の、それはそれは立派な床の間へ直行することが約束されていました。

若しくは、
これ見よがしに作者銘(個人名)の大げさに書かれた桐箱の中に大切に大切に仕舞い込まれ、年に2回~3回ほど知人に自慢するためだけに桐箱の中から出されては、ツマミの形だの底の削りだのを確認されるだけで使われず、また数か月後に来るはずの次の自慢の日に備え、綺麗なウコン布に大切に包まれて、出されたその日のうちに再び桐箱の中へ仕舞い込まれ、押入れの奥で眠りにつく運命にあるんです。


中には実際に使った方もおられましょうが、
100万円相当の土瓶を無意識に普段使いするなんて、よっぽど自身の美意識に信念を持っておられる方か、庶民には想像もできないほどの大層な大金持ちくらいで、

現実的に15円の土瓶を一般庶民が普段使いをするなんて、
とても とても とても とても 考えられません。



その頃は湯呑が三円どまりだったので、抹茶碗には五円の値段をつけたら、河井寛次郎に茶碗なら十円以下にする必要はないと笑われた。

濱田庄司『無尽蔵』



一般民衆の生活の中にある下手物や安物の中にこそ、健康的な美が宿ると本気で本当に心の底から信じていて、
「民衆の民衆による民衆のための」工芸品の持つ“用の美”で世界中が満たされる、そんな美の王国が建国される事を心から期待していた私には、



濱田氏や河井氏の笑い話を、笑うことはできませんでした。



出川直樹氏の著書『民芸』


それから暫く時間が過ぎ、
私は出川直樹氏の『民芸 理論の崩壊と様式の誕生』という一冊の本に出会います。

私が民藝(民芸)や柳氏や民芸派作家に対して感じていたモヤモヤを、出川氏は一気に言語化してくれました。


出川氏『民芸』


そして私は、出川氏が主張する

「民芸理論は理論としては破綻しているが、柳氏の審美眼は素晴らしい。
これを理論ではなく柳氏の “好み” や “様式” と捉え、民芸様式の質や価格を市場経済に任せれば発展できる。」

という趣旨の主張に同意するに至りました。


さらに印象的だったのは、
「民芸様式の特質」として民芸の特徴が淡々とまとめてある部分でした。

「民芸」の話をするときは肯定するにしても否定するにしても、必要以上に感情的になりすぎる場合(柳宗悦氏本人や北大路魯山人氏などは象徴的)が多いという印象があります。

「これは正しい」「あれは間違っている」という事ではなく、
ただただ柳氏の好んだ様式が箇条書きで示されていました。



私は今まで、心の中で柳氏を「生きている個人」として認識していました。



しかし、感情的な深入りをせずに歴史の1ページとして距離をおいて「民芸」を論じるあり方は新鮮でした。


そして現在、
私は柳氏の主張に共感してはいないが、過去に助けてくれた恩人であること自体は事実なので、その部分に関してのみ感謝しているのです。



30歳

結局は訂正されない小代焼の歴史


『民藝(民芸)』や『柳宗悦』という唯一神を失っても、月日は当たり前のように流れていきました。


『民藝(民芸)理論』やそれを取り巻く人々の体たらくにうんざりし、すっかり愛想を付かしていた大学4年生の私は、ダーウィンの『進化論』を題材に卒業制作を進めていました。

ここに来て幼少期からの生き物大好きっぷりが発揮されることになります。

ここだけの話ですが…
佐賀大学卒業制作展での人気投票では1位を獲得し、気持ちよく佐賀大学を卒業することが出来ました。


そして大学を卒業した私は、家業である小代焼を継ぐと決心し、半分決まりかけていた近畿地方への弟子入りの話を断って、熊本県の実家へ帰ります。

しかし、
解決できずに、目にするたびにハラワタが煮えくり返っている問題が残っていました。


それは、
「小代焼の正当で正確な情報」が世の中に出回っていない
という問題です。


ひどすぎるものは平安時代に始まると言っているサイトさえあるんです。
800年~500年ほど時代がズレています。

…いやいやいやいや
いくらなんでもズレすぎです!
目に入った時には怒りを通り越して、ちょっと笑ってしまいました。


『平安時代説』のブログを運営している関係者に一度お会いする機会がありましたので、実は面識があるんです。
少し前のことですので、お顔は忘れかけていますが…。

丁寧に訂正を促すメールをお送りしましたが、2024年現在も返信は来ずに無視されたままでおります。



note、ホームページ、Instagramをやるしかない


柳宗悦という神を失い、デレビに出れず、本を出せず、講演会も開けない私はようやく当たり前のことに気付きました。




誰も助けてくれないんだから、自分でやるしかないんです。




そこから小代焼の正確な情報を知ってもらうべく、
Instagramを始めホームページを運営し、ついにはこのnoteで文章を書くに至ったのです。


私はホームページ上で異常と言えるほど、
小代焼の詳しい歴史の紹介や、特徴の解説を行っています。



ホームページ運営に当たって、
世界一、正確で詳しい小代焼についてのサイト
を目指して、作陶の合間に、時には徹夜しながらサイトの管理更新を行っています。

小代焼中平窯の公式ホームページは、私の時間と労力と執念の結晶です。

まぁ、ホームページそのものは重々しくならないようにレイアウトしていますが。



ようやく公のメディアに出る


実家で小代焼制作に勤しんでいる私は、
ひょんなことから、とあるドキュメンタリー番組を知ることになりました。

その番組とは、
『明日への扉 』
2009年から続く30分のドキュメンタリー番組です。




番組内では、日本の伝統文化の若い担い手達が、その土地の歴史や文化の解説を織り交ぜつつ紹介されています。


私は

これだ!絶対に絶対にこの番組に出演して、
正しい小代焼の歴史や文化を知ってもらわなくては!


と確信し、制作会社に連絡を取りました。


私の何が何でも小代焼を紹介して欲しいという想いが伝わったのか、見事に『明日への扉』の長期密着取材を受けることになりました。

ディレクターの田辺氏は
「作り手からのプッシュで撮影が決まったのは今回が初めてだよ。」
とおっしゃっていました。



こちらから取材をお願いしておいて烏滸がましい限りですが、
番組放送に当たり何度も何度も私からお願いしたことがありました。

それは
「小代焼の正確な歴史、江戸時代の窯跡、江戸時代の古い小代焼」
を番組内で紹介してもらう事。

撮影終了後に手元に届いたナレーション案を夜通し読み込み、言い回しを訂正し、密にディレクターさんと連絡を取り合いました。



そして去年、2023年9月に無事放送に漕ぎつけました。



数万年後に、また会いましょう


民藝(民芸)思想から解放され、自分で情報を発信することで幼少期の惨めさから自力で抜け出した私は、

焼き物としての壮大なロマン・夢物語について考えることが増えていきました。



焼き物としてのロマン、それは

「自分の作った作品が、数万年後まで残る可能性がある」

というものです。



中国江西省で世界最古と思われる2万年前の土器が見つかりました。

焼き物は長い間その姿をとどめ、次の世代に様々なことを教えてくれます。

焼成温度が低く、陶磁器の中では比較的脆いと言われている土器でさえ2万年も形を保ったのです。


私が作っている小代焼なら
その何倍も長い時間、地球上に残ることが可能なはずです。


例え湯呑み1個でも、箸置き1個でも、
はたまた割れた器の欠片であっても、数万年後の未来人に
「美しい…」
と言われ、感動を与える可能性があるのです。



私は時折、江戸期の小代焼に残された指跡に自分の指を重ね、過去の焼物師達に想いを馳せます。

もしかしたら、

私の作った器に残る私の指跡に、数百年後か数千年後か数万年後の未来人が自分の指を重ね

「この器を作った人はどんな人なんだろう」

と、私に想いを馳せてくれるかもしれないんです。



ヘビと焼き物と本が好きな30歳


今年の3月6日に、私は30歳になりました。

note、Instagram、ホームページを運営し、
ドキュメンタリー番組への出演を果たした私ですが、今でも「小代焼に正当な評価を!」と願い、そして行動しています。



「H焼は茶陶として全国的にも有名な素晴らしい美術品だけど、
小代焼は大した歴史も何にもない焼き物だね。」
と言われ馬鹿にされた、あの夏の日の小学3年生の自分。

「…あぁ~、、…はいはい…あの民陶ね…」
とあしらわれて、取るに足らないゲテモノ屋の息子であると見下された大学1年生の自分。

あの悔しい思いを抱えた私を、
結局、柳さんでは救えませんでした。













小代焼を知ってもらうために、

今この文章を考え、
今パソコンのキーボードを打ち、
今エンターキーを押した、

今の自分が行動する事で、過去の惨めな自分を救っているんです。



行動するようになった30歳の私の興味関心の向かう先、
それは幼少期からほとんど変わっていません。

ヘビと焼き物と本が好きな小学生は、
ヘビと焼き物と本が好きな30歳になりました。

そして、これからもそうでしょう。




今、2024年5月3日の22時過ぎ、
ガス窯の本焼きをしながら中平窯の事務所でパソコンと向き合っています。

窯の温度は1,000℃を超えました。
今日の夜中から夜明けまでの間には、本焼きが終わるでしょう。


今、窯場の森の奥で梟が鳴きました。




今の自分が、過去の自分を救ってくれて、未来の自分を助けてくれます。








さてさて、
今回の長い長い独り語りはこれにてお終いといたします。

皆様、お付き合いいただきましてどうもありがとうございました。


最後まで読んでくださり、心から感謝しております。

また、必ず会いましょう。


小代焼 焼物師・西川智成


2024年5月3日(金) 西川智成

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