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誠実さの上に成り立つ多様性・歴史編

熊本県で小代焼を作っております。
小代焼中平窯の西川です。

今回は
「多様性は大事だけどマナー・モラル
つまりは誠実さがあることが前提だよね」
って話です。

そこから歴史における誠実さ、小代焼の謎へ展開していきます。



先月、高取焼の方とお会いしたのですが、
「自伝を書くために可能な限り資料を遡り、資料を集めている」
「証拠が無い物は書かないように気を付けている」

とおっしゃっており、

その姿勢に感銘を受けました。



例え話


「他人に迷惑を掛けながら自己主張をする」
というのは多様性の対極にある行為
だと思っています。


これから極端な例え話をします。



その人の置かれている環境や嗜好によって趣味は人それぞれです。

「映画」「アニメ」「盆栽」「旅行」「スポーツ」は趣味として違いはあってもそこに上下関係はありません。

「好きなことって人それぞれだよね~(^^)」となります。



しかし、

「人に爆竹投げるの楽しいです」
って人がいたらどうですか?

絶対に「好きなことって人それぞれだよね~(^^)」とはなりませんよね?

そして、
そのような行動によって警備や条例が厳しくなり、他人の多様性を奪うのです。


…ちょっと例え話が極端すぎましたかね(^^;


要は個人の主張は大事なんだけれども、
個性を認め合うのは最低限の誠実さがあっての話だと言いたい
のです。



歴史に対する誠実さ


私は歴史の専門家ではありませんので、歴史について語る立場にいないのかもしれませんが…。

私なりの考えを書かせていただきます。ご容赦ください。


歴史というのは本当に難しいです。

歴史の主人公から直接話を聞くことはできませんし、古文書を読み解いたとしても内容が真実だとは限らないからです。



説がいくつもある場合もあります。
戦国時代なんかによくあるのは、一つの事実に対して「勝った側」と「負けた側」で認識が違うというパターンです。




現代でも本・ネット・メディアの全てで本当のことを言っているとは限りませんよね?

事実の一部を言っているけれども、セットで語られるべき都合の悪い内容は言わない(意図的に編集している)ということも多いと感じます。

分かりやすい嘘ではないだけ、タチの悪さは単純な嘘より上かもしれません。



そして、
全部が全部本当のことを言っているとは限らないのは、過去の人々だって同じです。

そのため、
現代を生きる私たちが過去を紐解く時に大切なのは「誠実に歴史と向き合う態度」
だと思うのです。




まず自分にできる範囲でよいので、可能な限り資料を探す。
実際の資料を直接見ないとしても、専門家の話を聞く。
そして、その中からより真実味のある内容を選ぶ。


具体的に言いますと
「宣伝のために書かれた文章や個人的な文章」

「奉行所へ提出するために書かれた文章」
の2つがあれば後者を選ぶということです。


私たちだって友達へのラインと市役所への提出書類では、
書く時の慎重さが変わるでしょう?



また、歴史と向き合う上で
「最初から自分に都合の良いストーリーを作り、そこに沿った資料しか集めない」
というのは、かなり危険な行為
だと思います。

これは歴史に限った話ではなく、最近だと新型コロn……

……はい、脱線する予感がするので止めますね。



そして証拠が無いものには「分かりません」と言うことも大切です。
もしくは「私の考えでは~と思っています。」と表現すること。



断っておきますが、上記の内容を私が完璧に実践しているわけではありません。
私も人間ですので偏りがありますし、過去に恥ずかしい失敗をしたこともあります。

しかし、「自分にも偏りがあることを認めつつも、出来るだけ歴史に誠実であろう」とは思っています。


そして、そうした中で説が分かれてくるのは良いのです。




歴史に対する誠実さを経た上であれば、仮に歴史的解釈が分かれたとしても「いろんな説があるんですね!」とお互いに認め合うことになります。


歴史に関しても
『誠実さの上に多様性が成り立つ』
のは同じです。


小代焼の謎


熊本県南関町 『瓶焼窯跡』


小代焼は1632年の細川家の肥後入国に伴い、
上野焼・焼物師である牝小路家と葛城家が小代山(現在の小岱山)周辺で焼き物を始めたことに由来します。

1753年に玉名郡奉行所へ提出された先祖書によりますと
両家は1632年の細川家肥後入国の後に豊前から宮尾村(南関手永)へ移住し、御用の焼き物を差し上げてきたといいます。

現在確認されている中で最古の小代焼窯跡は南関町にある瓶焼窯(かめやきがま・かみやきがま)です。
発掘調査によれば現在の窯跡は1769年に築かれた新窯で、その下にさらに古い窯跡が存在することがわかりました。



しかし、瓶焼窯跡以前の実態がはっきりとは分かっていないというのが現状です。

地下にある一回り小さな窯跡の開始時期はいつ頃か?
・肥後入国直後はこの一回り小さな窯で焼いていたのか?
・初期は別の窯があったのか?
などなど。

この部分に関しては明言することができません。



また、先月後半に福岡県の秋月美術館へ古上野研究家の方、高取焼窯元の方、私の3名で訪れました。

その際に小代焼は上野焼の流れを汲んでいるものの、
釉薬の種類や掛け方・茶陶の美意識は高取焼との関連も十分ありうると思えました。

細川家時代の上野焼陶工と高取焼陶工は交流があったようですが、
その交流が小代焼の作風へも影響を与えているのではないでしょうか…?
現時点では確証はありませんが。



もちろん高取焼では「ニナ尻を入れない」「重ね焼き時に蛇の目も見られる」という小代焼との相違点もありますので、全く同じとも言えません。



私は上野焼・高取焼の方々と交流を始めて日が浅いのですが、

今後も「誠実に歴史と向き合う」ことで、より小代焼(江戸期の古小代)への理解も深まってゆくであろうと期待しています。



そして私は、何歳になっても

どうしても分からない問題に直面したときには、

「今の私では分かりません」と言い続けるでしょう。



2023年7月11日(火) 西川智成



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