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「自分のことは、自分で決める!」 男女共同参画はそこから始まると思う

(那覇市女性ネットワーク会議の知念清子さんインタビュー)

沖縄を代表する銀行でかつて、女性では6人目となる支店長を務めた知念清子さん。退職後は那覇市女性ネットワーク会議のメンバーとして、男女共同参画などをテーマに活動を続けている。2021年11月からは那覇市男女共同参画会議の委員も務め、今なお精力的に活動を続けている。沖縄の「本土復帰」前後、20代の頃には憧れだった東京支店で働き、50歳で密かに願っていた外部出向を叶えるなど、常に伸びやかに働き、自らの世界を広げる努力を続けてきた。とはいえ、入行当時は昨今と違い、「銀行員は早朝から深夜まで働くのが当たり前」だった時代。娘2人を育てながら、一線で働き続けることができた原動力がどこにあったのか、話を聞いた。(2022年6月取材)


【プロフィール】
(ちねん・きよこ)那覇市女性ネットワーク会議「あけもどろ女性の会」会計。2021年から那覇市男女共同参画会議委員を務める。1966年、琉球銀行に入行。本店営業部を皮切りに寄宮支店、東京支店、那覇支店、人事部、1998年4月〜2年間沖縄県女性総合センター(現在の沖縄県男女共同参画センター)「てぃるる」に出向。本店営業部那覇市役所内出張所長2年間、人材派遣センターオキナワで常務取締役を歴任。那覇市出身。那覇商業高校卒。


銀行勤め40余年、パスポート持ち東京支店へ

「政策決定の場に女性たちを送り出したい」と願う知念清子さん=那覇市銘苅、なは女性センター

琉球銀行(以降「琉銀」)に就職したのは、たまたまです。通っていた高校に求人が真っ先に来たんですよ。「まずは受けてみよう」と思って受けたのが運よく合格したんですね。1966年に入行して2008年に定年退職するまで、もちろん私も頑張りましたが、琉銀に育ててもらったと今でも感謝しています。

本土復帰に合わせ1972年3月から2年半、東京支店で勤務しました。当時は24歳で東京への憧れもあったので、「東京で生活しながら仕事もできるなんて超ラッキー!」でした(笑)。まだアメリカ統治下だったので、パスポートを持って飛行機で東京に行きましたよ。初めはホームシックにもなりましたが、一人で電車に乗れるようになり、レストランでも食事ができるように。一人旅行まで楽しめるようになりました。動じない自分に成長させてもらいました。

東京時代に使っていた電車の定期券

実家から1分の所にマンション購入

沖縄に戻ってから数年後には人事部へ配属となりました。以来20年2カ月は、結婚や2度の出産・育児を経験しながら、人事部で長く勤務しました。1986年の男女雇用機会均等法、1992年の育児介護休業法の施行時には社内制度の構築に関わったので、よく覚えています。スキルアップを目指し、産業カウンセラーの資格も取得しました。53歳から2年間は、那覇市役所内出張所の所長を務めました。女性では6人目の支店長でした。55歳で出向先の人材派遣センターオキナワの常務取締役を務め、60歳で定年を迎えました。

30歳で結婚、32歳で長女、34歳で次女を出産。今は孫が3人おります。私が子育てした当時、産休は「産前産後各6週」。行員は朝8時までには出勤し、夜遅くまで働くのが当たり前でした。実家から1分の所にマンションを買い、両親が保育所の送り迎えをしてくれて、夕ご飯まで食べさせてくれていました。今では理解し難いと思いますが、当時は実家の全面的なサポートがないと、保育所だけでは銀行の仕事は続けられない時代でした。

娘の成人式にて=2003年

励まし合える仲間のおかげで

親のサポートがあるとは言え、「子どもは自分で育てたい」という思いも強くありました。保育園に娘を預ける時に泣き叫ばれた時など、辞めたいと思うことは何度もありました。でも、結婚・出産後も働き続ける同僚も多く、励まし合える仲間のおかげで続けられました。

私がチャレンジを続けられたのは、同僚のおかげです。「挑戦しないと、やる気がないって思われるよ」「あなたが挑戦するなら、私も頑張るよ」と励まし合える仲間のおかげで、昇格試験にも挑戦しました。妊娠中に面接を受けたこともありますよ。当時の銀行は今のように、ワーク・ライフ・バランスを考慮するような就業環境ではないので、当然ダメでしたけどね。でも挑戦したかったんです。やる気がないと思われるのが嫌だったんですね(笑)。

加えて、沖縄の県民所得は全国の7割程度。琉銀は福利厚生が充実していましたし、家庭的に働き続けないと厳しい現実もありました。でも何より、仕事が面白く、働くことがとても楽しかったんです。職場が大好きでした。女性も男性も、尊敬できる、目標とする人たちが周囲に何人もいましたから。

自らの経験を糧に、人事業務にまい進

銀行で勤務していたころ

私が働き始めた1966年当時、女性は高卒か短大で働く人が大半でした。ですから、後から入った大卒の男性が、女性より先に出世することは「当たり前」。でも、琉銀では自分で努力して資格を取得し、結果を出して昇格していく「土俵」は男女とも同じ。もちろん家庭の事情などから昇格を目指さない人もいましたが、「男女とも平等に挑戦できる」という点では、女性にも開かれた職場でした。

私自身が仕事と子育ての両立の大変さを実感していたので、産休が明けて復帰する人や、子育て中の方々の異動や配置を考える際には、人事部の一員として、できるだけその人の状況を考慮しつつ、各支店の人員バランスも勘案してスムーズに仕事ができるよう意識しようと努めました。

原点となった、男女共同参画センターへの出向

退職後は、那覇市女性ネットワーク会議(通称「あけもどろ女性の会」)のメンバーとして活動しています。「沖縄県女性の翼」のメンバーが中心となって2016年に立ち上げ、さまざまな団体や個人81人で活動しています。2022年度は女子差別撤廃条約の勉強会や、アナウンサーの狩俣倫太郎さんを講師に「性の多様性」の講演会を開きました。おきなわ女性財団理事長の大城貴代子さんをはじめ、多様な経験や実績がある皆さんと一緒に楽しく活動しています。

男女共同参画の活動に関わるきっかけは、沖縄県女性総合センター(現在の沖縄県男女共同参画センター)「てぃるる」での勤務経験です。前述のとおり、私は18歳から60歳までの42年間、琉銀に勤めていたのですが、1998年から2年間は「てぃるる」に出向させてもらったんです。
 
てぃるるでは、命にかかわるような深刻な問題を抱えて相談に来られる方、県外から逃げ帰って駆け込まれてくる女性など、厳しい境遇にある女性たちの実状を目の当たりにしました。ジェンダー問題や性の多様性や生き方についても、たくさん学ばせていただきました。それらの経験が原点です。2年間の勤務は本当に貴重で、大きな刺激をいただきました。

てぃるるへの出向を希望したのは、初代館長だった狩俣信子さんとの出会いがあったからです。出向する何年か前、知人の紹介でお会いする機会があり、そのパワーとスケールの大きさに衝撃を受けたんです。女性登用への思いを熱っぽく語る姿に感動し、「こんなリーダーは出会ったことがない。狩俣さんの下で学びたい」と思っていたところ、幸運にもその願いを銀行が叶えてくれたわけです。

家庭の中から男女共同参画を!

「政策決定の場に女性たちを送り出したい」という思いは強くあります。とりわけ政治の場に女性が参画することで変わっていくことがたくさんあると実感しています。クオータ制も取り入れて欲しいです。次のリーダーとなる女性たちが必要です。「数十年に1人」というレベルの優秀な人だけでなく、誰もが輝けるよう一人一人にピンポイントを当てることが大切だと感じます。

行政には女性登用をしっかり進めてもらいたいですね。「家庭の中から男女共同参画!」も大切だと思います。人生の主役は自分です。もちろん、妻は夫の、夫は妻の、サポート役になることはあります。でも、どちらか一方だけがサポート役ではない、ということです。「自分のことは自分で決める!」。全てはそこから始まると思います。

「食事・休養・運動」で健康に

食育活動を続けていて、味噌づくりは20年ほど続けています。梅干しも作りますよ。2年ほど前から女性専用フィットネスにも通っています。体重5キロ、ウエスト周りは9センチ減りました。糖尿の数値も改善しましたよ。趣味のボウリングも続けていて、マイボウルも持っています。健康には「食事と休養と運動」が基本です。

(聞き手・佐藤ひろこ)


第16期・那覇市男女共同参画会議の委員の皆さんをご紹介するインタビュー企画です。なは女性センターだよりで掲載した連載企画「ハイタイ ハイサイ 参画委員です!」のロングバージョンです(凝縮版の場合もあります)。


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