明日、君は指揮を振る
「卒業式で、指揮者やらないかって聞かれたんだけど、、」
三学期が始まってすぐ、戸惑いがちに長男が言った。
「え?今年も?すごいやん」
そう答えるも、複雑そうな顔で「うーん」と言う。
卒業式での合唱の指揮者は先生からの推薦で決まる。その日、長男は学年主任の先生から指揮者をやって欲しいと言われ、その場で即答をせずに持ち帰った。
「去年もやってるからさ、僕ばっかりでいいのかと思って」
去年、在校生として卒業式に参加する二年生の指揮者を任された。結局、コロナ禍の中で、卒業式に在校生が参加することはなく、その数日前に行われた卒業生を送る会で合唱は披露された。
それでも大役を果たして帰ってきた長男の表情は清々しく、その顔を見て私は気持ちに一区切りができたのだろうと思って安堵した。
*
指揮者を務めた半年前、長男は文化祭で歌う合唱の伴奏オーディションを受けた。文化祭では各クラスで合唱曲を決めて、金賞、銀賞を競い合う。そして、指揮者と伴奏者はクラスの中から希望者を募り、オーディションをして決めることになっていた。
夏休み前に合唱曲が決まると、二学期が明けてすぐに行われるオーディションに向けて、希望者に楽譜が配られる。「どうしよっかな」と言いながら楽譜を持ち帰った長男は、少し弾いて「難しいんだよね」と呟いた。
『花をさがす少女』
その曲は歌も伴奏も難しいことで有名な曲だった。あまりの難しさにクラス内でも賛否が分かれたようだが、担任の先生が「この曲なら絶対金賞をとれる!」と豪語し決まったらしい。
楽譜を持ち帰った数人は、その難曲さに早々に挫折し、オーディション一週間前になっても練習を続けていたのは一人だけだった。
このままその子に決まるんだろうなと思っていた矢先、長男が急に「やっぱ受けるわ」と言った。
「今から?」
「うん」
一週間で弾ける曲だとは到底思えない。それでもチャレンジすると決めた長男は、その日から家にいる時間の全てを伴奏の練習にあてた。
「受けるなら受かりたいから」
負けず嫌いの血が騒いだのだろう。ものすごい集中力でひたすら練習して、どうにか大きなミスをしない程度にまで弾けるようになった。
「思いっきり弾いておいで」
オーディション当日、玄関先で細かいミスが気になっている長男にそう声を掛けた。選ばれなくても、この一週間の成果が出せれば充分だと思っていた。
「うん、思いっきり弾く」
そう言って、にこやかに学校へ行った。
結果は、不合格だった。
ただいまも言わずにリビングに入ってきた長男は、ずっしりと重いリュックを床に放り投げて怒り出す。
「訳わからん。あいつ、マジでふざけんな!」
『あいつ』とは担任の先生のことだろう。理論的な先生とは以前から折り合いが悪く、今までで一番嫌いな担任だと言っていた。
「なんで落ちたか理解できん。受けるんじゃなかった!」
そう吠えるが、理由が分からない。
「なんで落ちたん?」
少し落ち着いた頃を見計らって聞くと、眉間に皺を寄せたまま椅子にドカッと座り、はぁと大きなため息をついてから、
「上手すぎるんだって」と言った。
「は?」
「上手すぎるから、合唱には向いてないんだって」
あぁ、そういうことか。
中学生になってから手が大きくなり、指の力も強くなった。家の電子ピアノでも分かるくらい力強くなった演奏は、グランドピアノで弾くとさらに大きく響き渡ったのだろう。
朝、思いっきり弾いておいでと言ったことを悔やんだ。
絶対に負けたくない長男は、私に言われた通り思いっきり弾いたのだ。多少のミスもカバーしてしまうくらい勢いのある演奏は、それ自体が合唱には不向きであることに、私も長男も気付かなかった。
「そっか。残念やけど、、でもすごいよ」
合唱には不向きでも、上手いと言ってもらえたのは素直に嬉しかった。文化祭で披露できなくても、我が子がこの曲を弾けたんだと思うと誇らしい。
「、、まあね」
吐き出したことで落ち着いたのか、トーンが下がった声で答える。
「金賞、とれるかな?」
「とれるよ」
「そうだよね、じゃあピアノ練習せなね」
「ん?なんで?」
オーディションに落ちたのに、何故、練習する必要があるのだろう?
「伴奏の指導をして欲しいって言われたから」
これだけ弾けるなら、アドバイザーとして伴奏を指導して欲しいと言われたという。それを聞いて、一瞬にして頭に血が上った。
「それ、断りなさい」
合唱に向かないと言われたのに、何故そんなことを引き受けなくてはいけないのか。
「それはあんたがする仕事じゃない。断りなさい」
大体、伴奏者はどう思っているのだろう。いくら金賞をとるためとはいえ、子供の気持ちを考えているとは思えない提案に、今度は私の怒りが止まらない。
「断りにくいなら、お母さんが先生に電話する」
そう言って受話器を掴んだ時、それまで黙っていた長男が椅子から立ち上がり「やめて」と言った。
「金賞とりたいから。先生は嫌いだけど、あのクラスは好きだから」
仲の良いクラスだった。二年生になって、このクラスで楽しいと何度も言っていた。私をじっと見つめる瞳に迷いはなく、さっきまであんなに怒っていたのに、もう次の目標を見つけ、そこに向かって突き進むんだという意志を感じさせた。
「、、分かった」
深く息を吐き、受話器を置いて頷く。納得はできないが、ここでさらに傷を深くしても仕方ない。本人が決めたのなら親は黙って見守るしかないと思った。
人にアドバイスをするのは自分が弾く以上に難しい。
それから毎日、長男は自分でも練習し続けて完璧を目指し、歌の練習にも励んだ。
そして『花をさがす少女』は見事、金賞を獲得した。私はその合唱を、保護者席から複雑な思いで観覧した。
「どうだった?」
文化祭から帰ってすぐ、私の顔を見て尋ねる。それは合唱ではなく伴奏のことだというのは聞かずとも分かった。
「あんたの方が、上手いよ」
そう一言だけ伝える。
すると、緊張がほぐれた顔でにこりと笑い、
「うん。お母さんが知っててくれたらいいわ」と言った。
未練はあったと思う。本当は自分が弾いた伴奏で金賞がとりたかっただろう。しかし、自分の役割を最後まで全うした姿は立派だった。
そして、その努力の成果が認められたのか、在校生代表として指揮者を任された。その経験は、長男自身の自信にも繋がり、伴奏への未練を断ち切ることができたようだった。
*
「先生が任せたいと思ってくれたんだから、有り難く受けたらいいよ」
もっと指揮が上手な子がいるのは私も知っている。それでも選んでもらえたのは、それ以上に勝る何かがこの子にあったのだろう。
「それに、お母さんが一番見たい」
本心だった。
理由はどうあれ、私はただ舞台の真ん中で指揮を振る姿が見たかった。
「そうだね。そうする」
翌日、長男は学年主任の先生に指揮者を引き受けると伝えた。
明日、君は指揮を振る。
中学生活最後の大舞台で、これ以上にない大役を務める。
明日の朝、私は迷うことなく言うだろう。
「思いっきり振っておいで」
そして君は、きっとこう答えるだろう。
「うん、思いっきり振る」
そんな会話を心待ちに、私は今日を過ごす。
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