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起きるか?令和の「ええじゃないか」

雨がとんでもないことになってますが、いかがお過ごしでしょうか。

大丈夫かと聞いても大丈夫じゃない人はこんな記事を読む余裕なんてないでしょうし、少なくとも今こうして更新直後に読まれている方は安全なのでしょう。よかったです。

いやはや、雨、すごいですね。災害級の大雨だそうで強制的に自粛をさせているのではないかとすら勘繰ってしまうほどの大雨。

お盆とはなんぞやといった具合に雨は降り続けている。

避難所で待機している状態で避難所クラスターとかが起きないことを祈るばかり。

日本中で疫病が流行りそして天変地異クラスの気象災害、ここまできたらもう日本各所に大仏とか建てたほうがいいのではないかとすら考えてしまう。

ご当地大仏くらいの感覚で47大仏を建立してフィギュア版では合体するみたいなロマンに溢れた魔改造大仏様、拝んでみたいものだ。

そんなことを書くつもりではなかった。本題に入ろう。

世間では「自粛疲れ」を感じている人が増えているらしい。

ここ数ヶ月、緊急だと宣言されていない期間の方が多い毎日、いかがお過ごしでしょうか。

最初はロボットアニメとかのアクリル板を叩き割って押し込むくらいのスケールのボタンをイメージしていたけど、今はもうバスの停車ボタンくらいの感覚で押されているように感じる。

外に出歩くな、でも働け。そして飲食も控えろ。旅行だって考え直せ。帰省?いやいやもうやめろって。でもオリパラはやりますいらっしゃい外国人おいでませ東京。

そもそも「自粛」という言葉に違和感があるのは自分だけなのか?

自分で粛(慎む)と書いて自粛なのに、自粛を「要請」するって言葉として成立しているのかと考える。

よく考えるとサービス残業だってそもそも残業は「残って働くこと」なのにそれをあたかも「自分が望んで残って働くことを選んだ」みたいな意味として浸透していた。

自ら選択していないのにあたかも自分が望んで選んだかのような意味合いになっている言葉はもしかすると色々転がっているのかもしれない。

こういった自粛の要請だけでなんとかなってきたと盲信されていた理由に、日本人の責任感があったとかこの前のニュースで言われていた。

他の人も我慢しているんだから自分も我慢しよう。自分が我慢することによって他の人が助かるんだから我慢しよう。みたいに、自分が主体となってやりたいことを優先する全体主義っぽい個人主義が日本人の根底にあったのかもしれない。

ここで「日本人」と書くのはあまり個人的にはよろしくない気がした。別に何人であろうとそんなことを考える人はいるだろう。

ここでは日本のコミュニティに属している人種としての日本人と定義しよう。日本に住んでいるアメリカ人でもイギリス人でもインド人でも韓国人でも中国人でもとりあえずは日本にいる状態なのでとりあえず日本(に今いる)人としての日本人という話にしておく。

出る杭は打たれるという言葉がある。均一な集団の中で個人が飛び抜けた行動をするとその人は叩かれて他の集団と横並びにされる。とかの意味で、外国語でほぼ同じようなものは見当たらなかった。もしあれば教えてもらえると嬉しいです。

鳩の飼育ケージのような枠に入れられて同じようなことをやらされ続ける「Pigeonholed」という言葉や、日本でも知られている「ガラスの天井(Glass Ceiling)」とかは確認できた。

解釈にもよるけど、他の人と同じであれ、みたいなニュアンスの言葉は見当たらなかったのでこの言葉は日本的なものなのだろうか。興味が湧いてきたので今度もうちょっと調べます。

こんな感じで「周りがやっているから」といった形で個人が行動を制限することによって制限をキープできていた時間はもう終わったのかもしれないと感じている。

悪い意味としての「他の人もやっているから」の例をここ最近は見ることができているのかもしれない。

ちょっと前にオリンピックのマラソン種目で沿道に人が応援に来ていたことが問題になっていた。

ちょうど自分もリアルタイムでこの光景をテレビで見ていたけど思わず笑いを超えて心配になった。

とうとう制御が効かなくなってしまったか、という心配。自分の中でバイアスがかかっているとは思うけど、見た感じ若者ではなくそれよりも年上の人の割合の方が高かった気がしている。

思い返せば今年の正月に行われた箱根駅伝でも出場校の選手たちは大学の中や寮のテレビで試合を観ていたのに対して、沿道には高齢者が多々観戦に行っていたことが問題視されていた。

先月あたりから路上で酒を飲んだり宴会をしたりする人の姿がニュースで取り上げられてたけど、そういった人はどうしてその選択を選んでしまったのだろうか。

確かに自分も自粛疲れをしているかと言われると大きく同意できる。でもだからといって路上で友人と酒を飲んで馬鹿騒ぎをしたいとはならない。これを褒めろと言いたいわけじゃない。

逆に路上飲みをしている人たちからすれば、自分が家にいる夏を楽しまない馬鹿に見えるかもしれないし、その辺はなんとも分からない。

昨日あたりからインスタのストーリー機能を見る回数が減った。遊びに行っている人が多過ぎてやるせなくなったから。

この自粛疲れはなぜ起こったのか、そして自粛疲れの爆発はどうすれば防げるのか。その辺をちょっと考えてみた。

自分で粛々としていることを強いられていることについては確かにおかしいと感じる部分はある。でも、自粛してくださいと言われ続けてきたことに問題があるのではなく、そうやって「本来やろうとしていたこと」や「やりたかったこと」を取り上げられていることについてのフォローがないことが問題ではないかとまず考えてみた。

去年の春、今の何十分の一の感染者数のころに給付金が出た。全国民に10万円。その10万円の意味は一体なんだったのだろうか。

緊急事態に突入するからこれで命を守ってください。の10万円だったのか、それとも10万円渡すから大人しくしていてくれ。の10万円だったのか。経済を止めないための10万円だったのか。正直よくわかってない。

そうであっても当時は今と比べると比較的多くの人が我慢をしていたのではないだろうか。

人は対価がなければ自発的な行動をすることが難しいと何かの本で読んだ。

ちょうどこの前大学でやった実験でそんな感じのことについて触れられていた。条件づけというもので、何かをすれば何かが結果として出ることを設定された場合、ハトはどういった反応や行動をするのか?などといった実験をした。

ここではn回ボタンをつつくと1回エサ箱が開くという設定の実験で、変数をいじったらどんな感じでハトが動くかみたいなところを観察した。

余談は置いておいて、ヒトだって何かのご褒美がなければ苦行に耐えることはできないだろう。

一応ご褒美としては「感染を防ぐことができるし自分も死ぬ確率が下がる」というものがあるけど、それはきっと約束されたものではないだろう。感染対策をしていたって感染するときはあるかもしれない。

目に見える形のご褒美がないし、個人がご褒美に設定していたことが中止や延期になってしまえばもう何を目指して生きればいいのか分からなくなるのは当たり前ではないだろうか。

最近になって去年から延期になり続けていた映画が続々と公開されてきているけど、去年は自分史上最も映画館に行かない年だった。だってそもそも観たい映画が公開されないんだもの。

あれが観たいから頑張ろうと思っていた映画が延期になった瞬間を何度も体験した。ならもういっそ2年後とかに延期しろや。と思ったこともある。

エヴァとかは結構公開延期のタイミングが早かった気がする。去年の3月の時点で6月公開予定だったのが12月とかに延期になって、さらに近日上映になって、いきなり公開3週間前とかに公開日が発表された記憶がある。

まぁエヴァの場合待たされることがデフォルトだったから正直そこまで苦しくはなかったし、なんなら都度公開される予告編を繋げたら実質本編になるんじゃないかとすらネタにされていたけど。

まだ映画はいい。ライブとか演劇とかが好きな人にしてみたら苦難の季節がまだまだ続いているだろう。

初めてそこそこの流行が確認されていた頃、メディアがまるで感染の元凶とまで槍玉にあげたのはライブハウスだった。

地下で密室で空気の巡りが悪く至近距離で人が声を発して飛沫を飛ばしまくる場所のように言われていた。実際はそうでもなく、最近だとむしろオフィスとかよりも安全なのではないかと言われるくらい換気ができるようになり、公演も基本は無言でコールは厳禁とまで言われているそうな。

ライブ、行きたいですねぇ…推しのグループのライブもかれこれ1年くらい行ってないから最近は新曲すら聞かなくなってしまったことが怖くなってくる。本当に自分は今も好きなのだろうか。

ちょっと前には日本最大級の野外フェスが根拠のない理由によって中止になった。

そこまでは頑張ろう、そこで好きなバンドを見るまでは……と日々を生きていたファンは今どうしているのだろうかとオタクながら心配になる。オタク、生きて。頼むから生きて。

我慢をすることの対価が理不尽とまではいかなくとも理不尽に奪われていること、そしてそれを嘲笑うかのように多様性の祭典を敢行してしまった国に対して不満が集まるのは自明なのかもしれない。

聞けば、飲食店が営業をしないことに対する補償をされるのが遅れているらしい。財源もひっ迫しているらしく、すぐに補償金を送ることが難しくなっているそうな。

店は閉めろ。営業はするな。補償は遅れるから持ち堪えろ。それでは道理が通らないとして営業を再開する飲食店が出始めた当時、それをよしとしない周りの飲食店も多かったというニュースが5月くらいのニュースで報道されていた。

これは「ここら一帯は自粛を守っているのだから守るべきだ」という考え方があったからそうだったのかは分からないけど、そうだったのではないかと推測している。なぜなら、他の人が守っていることを根拠にそれを守らないといけない空気感が形成されていたから。

それが今や繁華街で営業をしていないお店がどれだけあるだろうか。やってられないから店を開けたところだってあるだろう。

もうやってられない。が他と同調をするラインを超えたのかもしれない。

そう考えると去年の夏とかにぽつぽつ出現して最近もデモとかをやっている「ノーマスク派」も、ある意味「マスクをしなければいけない」という集団に固定された認識を耐えられなかった人が行動した結果なのかもしれない。

我慢を頻繁に強いられていると我慢をするための我慢ができなくなり、結果的にその我慢に意味がなくなるということをどこかで学んだと思って考えてみると、それはポケモンだった。

ポケモンに「こらえる」っていう技があって、相手からの攻撃をこらえるというものなんですけど、これ面白いことに連続で「こらえる」を選択すると失敗しやすくなるんです。どっかで聞いたことがあるそれですね。

堪え続けた結果、きっとその我慢に意義や目的が見出されなくなり不満が何かしらの抵抗として現れてしまうのかもしれない。

そんな感じのそれを映画『ジョーカー』で観た。

社会に見えてるけど見えないフリをされ続ける問題を抱える人たちが、物語のクライマックスの主人公のアーサーが引き起こした行動によって暴動という形で解放されてしまう。

国は助けてくれない。自分たちを見てくれない。そんな状況で体制に暴力で抵抗の意を示した社会的に無敵になったアーサーはまさしく秩序を壊す『ジョーカー』として革命のシンボルとなってしまう。

最大多数の我慢をする不満を吐き出す瞬間が一致すれば、もしかすると集団として機能しやすい日本人は一瞬で暴徒と化すのだろうか?

よく考えればかつては「ええじゃないか」とか「米騒動」とか「一揆」とかでコミュニティ単位の暴走を学んできた。

仮に若者であろうと高齢者であろうと、カリスマとして名高い人間が国や体制に対して暴力を伴う行動をすればそれに続いて動き出す人と、それを見て踏みとどまる人の割合はどれくらいになるのだろうか。

それこそ昨日記事にしていたDaiGoの話だって、彼がいきなり社会的弱者を排斥する宣言をして実際に排斥し始めたらそれをカリスマの行動だと判断する信者的なファンはいるかもしれない。

混沌に乗じて秩序が崩壊する瞬間を対岸の火事として眺められるならともかく、おそらく確実に安全圏が存在しなくなるそれを観たい自分と観たくない自分が喧嘩を始めそう。

前にもまして不安定な世界で、果たして自分は善良なヒトなのだろうかと考えてしまう。大丈夫と言う人に限って大丈夫じゃないように、正常だと妄信する異常者でないことを祈るばかり。

そんな感じで今日のnoteも終わろうかと。ここ数日本を読んでいるので賢くなっている気がしています。賢いと勘違いし続けたいところ。最近は1日5分本を読むだけで日本人の上位5%とかになれるそうですね。その5%に意味があるのかは知らんけど。

また書きたいネタが書けなかった。ネタ負債をどこかで消費したいところ。

ではまた明日。おやすみなさい。

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