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vol.15【穏やかな凪】ずっと、この状態が続けばいいのに

ペエくんのがんがわかった時、ブンブンが電話口で「どうしてこんなことになっちゃったのかなあ」と。
「この家で幸せに、栄養のあるご飯を食べて暮らしてたのに」なんて言っていました。

出不精で内向的な私の父・ペエくんは、散歩以外の外出はしたがらなかったので、もっとアレコレやらせれば良かった、と私の母・ブンブンは思っている様子。

「そっか。でもさ、お父さんは、そうやって暮らすのが心地よくて、そうしていたんだもの。それで良かったんだと思うよ。それ以外無理じゃん、人は変えられないよ」
「うん、まあねえ」
とブンブンはモゴモゴ。
このやりとりがしばらく続きました。

どうも、老老介護の実家を遠くから心配する娘・マアちゃんです。
間が空いてしまい。ちょっと思い出しながら書くnoteです。

とりあえず、看護師さんが週に一回実家を訪問してくれるし、病気による痛みなども全くない状態が続いていた頃、考えていたことです。

実家は思うほど遠くない。仕事しながら移動すれば、家や仕事場にいるか、乗り物にいるかの違いだけでした。
何度も通って道中に慣れておけば、事態が緊迫してきても冷静でいられそう。
実家に押し掛け始めた2〜3回めまでは、最寄駅に止まらない快速に乗ってしまったり、どう乗り換えるとスムーズか模索して落ち着かなかったので。
(住んでいた頃より乗り入れ路線が増え、新しい通勤快速ができたり、わからなくなってしまいました)。

しかし、実家がとても遠い人もいるし、一概に言えないですね。親が海外にいる同業の友人は、飛行機移動を難なくこなし、「移動の機内と隔離期間で大きな仕事に手を付けることにしたから、新しいきっかけになったよ」とポジティブ変換していました。
(私はそこまでエネルギーあるかなあ?人それぞれ、できるところまででいいと思います)。

もうひとつ、両親の暮らしぶりを見るのが日常化し、感傷的になって苦しいということがほぼ無くなりました。病気がわかったばかりの頃は、老夫婦の後ろ姿を見かけると、「声をかけたら実はペエくんとブンブンで、ほら、すっかり元気になっていて、今までのことは夢だった」、みたいな想像をして勝手に胸が苦しくなっていました。

でも数回通うと余裕な気持ちで過ごせるように。実家から家へ帰る電車の時間まで(田舎だから本数が少ない)、実家でうとうとしながら待つこともできるほどに。
面白かったのが、うたた寝の耳に「バーン!」とドアが閉まる音が聞こえて、反射的に父が仕事から帰ってきた!と小さい頃の意識に戻っていたこと。

ハッと気づくと、50歳近い自分で、立て付けの悪い田舎のドアがちゃんと閉まっていなくて、風で一気に閉まったのでした。

 「凪」の期間は、実家を手伝うことはなにもなくて。ブンブンがしょうがなしに、「ペエくんのTシャツを○○で買って来て」「夕飯のために米を2号といでおいて」などと、用事を作って振ってくれて、一所懸命にこなすというお粗末。
だけど、愛情の交換をしに来てるわけだから、それでいいのだと思います。
目的は、だんだん困ってきた時、気兼ねなく電話しあえる関係性を築くこと。

仕事の都合がつく時に顔を出し、病院の受診に付き添い、あとは電話をちょいちょい掛ける。この繰り返しの時期が大事だと思って、サボりつつサボりすぎないようにしていました。

 




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