【料理エッセイ】トロたく巻き、お前とはもっと別な形で出会いたかったよ
すごく嫌いな人がいた。イニシャルでMさん。むかし、あるイベントの受付スタッフをやったときの上司だ。
Mさんは学生時代ラグビーをやっていたらしく、すこぶる体格のいい中年男性だった。ただ、いつも不機嫌そうにしている点で典型的なオッサンだった。……いや、デカくて怖い最悪なオヤジだった。
とにかく、わたしのことが気に食わなかったようで、ことあるごとにパワハラしてきた。質問をすれば無視をされ、事務的な連絡には舌打ち連発。チッチッチッ。無理難題を押し付けてきた。失敗したら公開説教。みんなの前でバカヤロウだの、給料泥棒だの、散々なことを言われまくった。
本当はすぐにも怒鳴り返して、「辞めてやるよ!」と啖呵切りたいところだったが、その仕事は一週間の期間限定。しかも、日給は二万と割に高額。大学生だったわたしは夏休みの合宿費用を捻出するため、この苦行に堪えざるを得なかった。
とにかく一週間我慢しよう。終わってしまえば、もう二度と関わることのない相手。頑張れ、わたし。負けるな、わたし。そんな風に自分を鼓舞した。
しかし、あれから十年以上経つというのに、Mさんの顔をありありと思い出せてしまうのだから、人生、そんなに甘くはないということか。いやいや、違う。これはひとえにトロたく巻きのせいだった。
「いきなり寿司を頼むやつがあるか」
地獄の七日間戦争が終わり、ようやく解放されると思った瞬間、誰かが打ち上げをやろうと言い出したのが運の尽き。本当は真っ直ぐ帰宅。一人でゆっくりおつかれさま会を開くつもりだったのに、気づけば、わたしは寿司屋のテーブル席に座っていた。
要するに欲をかいてしまったのだ。コンパニオンのお姉様から「お寿司を食べたーい」とねだられ、Mさんはデレデレ、しょうがないなと大盤振る舞い。「馴染みの寿司屋で奢ってやるよ」と高らかに宣言。それを聞いて、ハーメルンの笛吹き男にさらわれるが如く、わたしはみんなの後を追いかけていた。
最初はよかった。いかにも高級っぽい内装にワクワクした。おまけにメンバーの中で一番若かったからだろう。お姉さまはわたしに「好きなものを食べな」と言ってくれた。
やった! やった!
テンション上げつつ、くら寿司の要領で「じゃあ、アジとエンガワ、マグロを二貫ずつください」とお願いしてみた。すると、Mさんは鼻で笑って、
「いきなり寿司を頼むやつがあるか」
と、静かに叱りつけてきた。
「酒を飲むんだから、まずは刺身をつまみに一杯やるんだ。それから、ホワイトボードに書いてあるメニューを頼む。今日はハマグリの酒蒸しとキビナゴの唐揚げあたりがよさそうだな。あとは甘めの味がほしいってなったら煮穴子でも頂こう。とにかく、寿司は締めで食べればいいの。焦ってんじゃねえよ」
Mさんの高圧的な解説にわたしは「なるほど」と答えるしかなかった。まわりも同じだったのだろう。「じゃあ、それでいきましょう」と店員さんに声をかけていた。
そんなわけで、せっかく回らないお寿司屋さんに来たというのに空気は最悪。こんなことなら、スシローやかっぱ寿司で自由気ままにやる方がましじゃないかと苦々しかった。
ところが、いざ、Mさんオススメの流儀で飲み食いしてみると、想像以上にバランス良過ぎて戸惑った。
まず、刺身の盛り合わせにはアジもエンガワもマグロも入っていた。加えて、イカもエビもホタテもブリも人数分ついていた。ビールのおともと考えれば、酢飯はなく、ネタだけの方が種類をたくさん楽しめてグッド。どう考えてもTPOに適ったベストなチョイスでしかなかった。
ハマグリにも驚かされた。見たことないほど身が大きかった。職人さん曰く、今日は偶然いいものを仕入れられたんだとか。それで急遽、ホワイトボードに追加したらしい。キビナゴも同様みたいで、唐揚げも最高だった。
「どうする。煮穴子、食べたいか」
Mさんの問いかけに誰もが素直にうなずいた。死ぬほど悔しいけれど、認めるしかなかった。Mさんはクズだけど、グルメなのは間違いない。
後に聞いた話だが、Mさんは稀代の太鼓持ちとして業界では超有名。目上の人にごまをすりすり、よいしょ、よいしょを極めた結果、国際的なスポーツイベントの責任者ポジションを獲得したんだとか。その際、偉い人たちと会食を重ねに重ね、美味しいものにやたら詳しくなったらしい。
当然、煮穴子も最高だった。ちょうどビールから日本酒に切り替わったタイミングだったので、ペアリングも完璧。文句のつけようがなかった。
人間としては一ミリも尊敬できないのに、この人の食べ方は参考にしたい。そんな複雑な感情に頭がおかしくなりそうなとき、Mさんが頼んだものこそ、なにを隠そうトロたく巻きだった。
当時、わたしはトロたく巻きという存在を知らなかった。ただ、もう、Mさんの選ぶ料理に全幅の信頼を寄せていたので、出てくるや否や、迷うことなく口は運んだ。そのときの感動と言ったら! 脂の乗ったマグロのミンチとサクサクなたくあん。互いの良さを補い合って、究極のマリアージュを実現していた。
「どうだ。美味いだろ」
知らぬ間に目を閉じていたわたしはその言葉で瞳を開けた。ニヤニヤ笑う、Mさんの顔に視界いっぱいジャックされてしまった。
あの日以来、Mさんとは一度も会っていない。風の噂で、Mさんが媚びを売っていた理事長は失脚し、そのあおりを受けて仕事を失ったとか、失っていないとか。
正直、Mさんがどうなっていようとかまわない。ただ、ひとつ、残念なのはトロたく巻きだ。わたしの一番好きな好きネタになって久しいというのに、その美味しさを堪能するたび、Mさんのいやらしい笑みを思い出さなくてはならないのだから。
トロたく巻き、お前とはもっと別な形で出会いたかったよ。
マシュマロを始めてみました。
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