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【映画感想文】「嫌なら見るな」と言うけれど、見てから嫌だとわかるんだもの。どうすることもできないね。トホホ。 - 『またヴィンセントは襲われる』監督:ステファン・カスタン

 いつものことながら、予告編で面白そうな映画を見つけて劇場へ行ってきた。

 タイトルは『またヴィンセントは襲われる』というフランスの作品。なぜか目が合った相手に襲われるようになった男の話らしく、設定だけで面白い。

 デザインの仕事をしている主人公。冒頭、事務所でガラス越しに目が合ったインターンの学生からノートパソコンでぶん殴られるところから物語は始まる。

 めちゃくちゃクレイジーなんだけど、主人公はその学生に嫌味なことを言っていた自覚はあるので、ヤバいやつを相手にしちゃったのかもとちょっと反省。聞けば、学生はなにをしたのか記憶がないらしい。頭がおかしいにもほどがあるよー。

 ただ、その後、仲のいい同僚から目が合った直後にペンで腕を滅多刺しにされたり、レストランで食事中に外の浮浪者と目が合ったら、ずんずんこちらに迫ってきたり、これはおかしなことになっているぞとわかってくる。

 襲われる条件がなんであるか。いくつか実験を重ね、原因は目を合わせることにあると判明する。そして、襲ってくる人たちに意識はなく、すべてが終わったときにはなにも覚えていないようだ。

 じゃあ、誰とも目を合わせなければいいんだな。簡単、簡単。そう言わんばかりに生活をしてみたところ、これがいかに難しいことか思い知らされる。

 自転車で信号待ちをしているとき、ふと隣に止まった車を見たせいで、運転手とうっかり目が合ってしまう。もちろん、猛スピードで追いかけられる羽目に陥る。

 自宅のマンション内で遊ぶ子どもたちと挨拶をしたとき、いつもの癖で目が合ってしまって、殴られ、引っかかれ、噛みつかれ、抵抗せざるを得なくなる。

 ただ、客観的には大人が子どもを虐待しているようにしか見えない。あっという間に非難轟々。近所の人たちから責任を追求されてしまう。

 そんなわけで、なぜか目が合うと襲われるようになってしまった男は居場所を失い、安住できる場所を求めて田舎へ向かう。が、田舎は田舎で視線が多い。どうなってしまうのか? みたいな映画だった。

 間違いなく、設定が素晴らしい。

 目が合うと危険って感覚は誰もが持っているだろう。ヤンキー言うところの「ガンを飛ばす」や「メンチを切る」は喧嘩の始まりとして象徴的だ。街中に怖い人がいたら、ささっと視線を外すのが賢明な防御策のようになってもいる。

 従って、「目が合うと襲われる」という価値観は新しくもあり、懐かしくもあり、突拍子もない内容なのに観客は何が起きているのか瞬時に理解することができる。

 だから、これがハリウッド映画だったなら、主人公は同じ悩みを抱える仲間たちと偶然出会い、自分たちの権利を取り戻すための戦いに命を懸け、やがて居場所を取り戻していく成長譚として面白く受容さていたと思う。

 ただ、そこはフランス映画。なるほど、この素材をそんな風に調理するのねって感じが面白い。と同時に、ハリウッド的な展開を期待していた人にとっては物足りないかも。

 要するに、この映画は「目が合えば襲われる」という設定をストーリーを盛り上げるための道具として使うのではなく、あくまで現実世界の比喩として用いることで、観客である我々に思考することを求めているのだ。

 具体的には「嫌なら見るな」の困難さを提示している。

 特定のコンテンツに苦情を入れる人たちに対抗する言葉として「嫌なら見るな」は使われてきた。そのコンテンツが好きで、楽しんでいる側からすると、部外者に邪魔をされたくないという感情があるのだろう。

 表現の自由の文脈で、それは説得力があるかのように思われてきた。しかし、実際は嫌という感情が生まれるのは見てしまった後なわけで、すでに不満を抱いている人たちに「嫌なら見るな」は通用しない。だって、もう見てしまっているんだもの。

 結果、「嫌なら見るな」はさらなる衝突につながりやい。

 2011年、フジテレビ抗議デモがネットを中心に盛り上がった際、ナイティナインの岡村隆史さんがラジオで「嫌なら見るな」と発言した際の反発は凄まじかった。

 2015年、フランスの風刺新聞「シャルリー・エブド」はムハンマドの絵を掲載し、イスラム過激派のテロリストの襲撃に遭い、多くの人が亡くなった。

 これらの出来事はネットの普及によって、あらゆるメディアのあり方が一方通行から双方向に転換したことを決定づけた。

 従来、テレビや新聞は大衆に向けて情報を一方的に発信するだけだった。仮に反論があっても、人々は家庭や職場、居酒屋なんかで愚痴るだけ。世論を形成することは不可能だった。

 対して、ネットの登場で誰もが情報発信が可能になり、テレビや新聞の内容にリアルタイムで反論することが可能になった。しかも、フォロワー数が何百万もいるとなれば、世論を形成することもできる。

 そうなったとき、「嫌なら見るな」は通用しない。なぜなら、嫌を表明すること自体がコンテンツと化し、元となったコンテンツと真正面からぶつかり合ってしまうからだ。

 故に、マスメディアの発信内容に限らず、フォロワーの少ないアカウントのつぶやきであっても、嫌を表明される対象に平気でなり得る。

 最近だと産休クッキーをめぐる炎上なんかはその例だろう。

騒動の発端は4月15日、出産を控えるXユーザーが「職場の人に配るクッキーの赤ちゃんがかわいい」という文章とともに、赤ちゃんのイラストと「産休をいただきます」「ご迷惑をおかけします」の文字が入った産休クッキーの写真を投稿した。

すると瞬く間にポストは拡散され、「産休クッキー」はトレンド入り。「かわいすぎて食べられない(笑)」「産休とサンキューがかかっていてセンスがいい」という好意的なコメントが寄せられるいっぽう「産休で迷惑かけるのに幸せアピールかよ」「不妊治療してる人に渡したら一生恨まれるよ」というネガティブな意見も。

集英社オンライン『〈産休クッキー炎上中〉公園にいるママは「おめでたくていい」「配るくらい自由にさせてほしい」いっぽう丸の内OLは「自慢された気分になる」「配慮が足りない」〈100人の声〉』

 発端となったつぶやきは「職場の人に配るクッキーの赤ちゃんがかわいい」であり、そこに政治的な主張も、誰かを非難する強い言葉も含まれていない。なのに、炎上するなんて、おかしいじゃないかと直感的には思ってしまう。

 ただ、その炎上の是非を問うても意味はないの。現実問題、このような何気ないつぶやきでも炎上し、ネットニュースになり、テレビなどのマスメディアに取り上げられるような時代になってしまったという事実こそが重要なのだ。

 なるほど、不妊で悩んでいる人や同僚の育休で仕事が増えて困っている人にとって、産休クッキーを目にすることは心が痛むのかもしれない。「嫌なら見るな」と言われても、タイムラインに流れてきたなら拒否できない。先制攻撃されたと感じ、反撃しなきゃと批判コメントが反射的に飛び出したとしても不思議ではない。

 もはや、なにを書いたかなんて関係ない。誰が書いたかだって関係ない。万が一にも、それを嫌だと思う人に見られてしまう限り、いつ、どこでトラブルが生じてもおかしくはないのだ。

 つい、その妥当性について語りたくなってしまうけれど、そこはぐっと我慢して、とにかく、わたしたちが生きているのはそういう世界なんだと認識することから始めなくては。

 あれ? これって、まるで「目が合ったら襲われる」状況みたいだね。

 たぶん、『またヴィンセントは襲われる』が破茶滅茶な設定で描こうとしているのは、なにもかもが炎上しまくる我々の異常な日常なのである。そういう意味で、このリアリティのない映画はどこまでもリアリティに満ち満ちていた。




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