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【読書コラム】綱吉について調べていたら、ケンペル夫妻の昼ドラどろどろエピソードが出てきて、韓国ドラマみたいでめちゃくちゃ面白かったよ - 『ケンペルと徳川綱吉: ドイツ人医師と将軍との交流』B・M・ボダルト=ベイリー(著), 中直一(訳)

 最近、仕事の関係で徳川綱吉について調べている。

 自分が戌年だったから、生類憐れみの令で犬に優しくするよう法律で定めたせいで、社会がおかしくなったと民衆の不満は爆発。犬公方と蔑称で呼ばれるなど、愚かな為政者というイメージが広がっている綱吉。

 しかし、実際、生類憐れみの令の真意は違うところにあったと言われている。なんでも、犬に優しくすることだけが目的だったわけではなく、赤ん坊や病人、ひどい扱いをされている動物など、弱い立場に置かれた命を例外なく救うことを目指していたらしい。

 現在、わたしは日本の社会保障に関する資料作りをしているのだけれど、諸々調べていく中で、綱吉が本当にやりたかった理想を知るに至った。そして、それはこれからの時代にこそ必要なものに思われ、より深く学びたくなった。

 こういうときはネット検索だけでは心もとない。関係ありそうな書籍を何冊か読んで、漠然でも、概要をつかむことが大切だ。サボりがちだった大学の授業で身につけた数少ない習慣である。

 で、まず手に取ったのが 『ケンペルと徳川綱吉: ドイツ人医師と将軍との交流』という新書。

 ケンペルというのは17-18世紀に活躍したドイツの医師・博物学者で、ヨーロッパではじめて日本の情報をまとめた学術書『日本誌』を記したことで名高い。なんとなく、高校生の頃に日本史の受験勉強で覚えたような気がする。でも、詳しくは習っていないと思う。

 というのも、その経歴を読んだとき、所見のすごいエピソードがずらりと並んでいたのである。例えば、叔父さんが魔女裁判で死刑になっているとか、そんな野蛮な地元が嫌でスウェーデンに留学、偉い人と仲良くなって国王が派遣する使節団の一員となり、世界中を飛び回るようになるとか。

 で、インドに行きたくなったから、使節団を辞めて、東インド会社に就職するも、憧れだったインドはカースト制度がきつく、環境にも馴染めず、逃げ出したいと弱音を吐く。そのタイミングで日本の支社で医者を募集していると聞いて、すぐに飛びつく。結果、鎖国ど真ん中の未知の国・日本へやってきたという。

 約2年ほど出島に滞在していたらしいが、なんと、綱吉に2回も謁見している。会話はもちろん、自作の歌まで披露しているようで、その歌詞が著者の中に残されている。

一 この地球の裏側で
  私は想う 愛の義務を
  麗しいひとよ あなたは 私のものになってくれない
  最愛の人よ あなたの姿に 私の心は乱れる
  心の底から 私は
  母なる 陽の光にかけて
  あなたに 誓いをたてた
  永遠に あなたに忠実であろうと

<中略>

四 天の御子 偉大なる将軍
  この遠い異国の 支配者よ
  財宝にあふれ 力をほしいままにする人よ
  わたしは あなたの玉座の前で 誓って言おう
  あなたの富も あなたの栄華も
  あなたのまわりの美女たちも
  あなたの栄光は すべて
  わが愛しい人に比べれば 何の価値もない

『ケンペルと徳川綱吉: ドイツ人医師と将軍との交流』165-168p

 まさかのラブソング。しかも、目の前にある将軍・綱吉と比較して、自分の愛しい人を称賛するぶっ飛んだ内容。イカれている。

 もちろん、日本語ではなく、母国語で歌ったわけなのだけど、あまりの熱唱ぶりに綱吉から、

「どういう意味なんだ?」

 と、質問が飛ぶ。当たり前だよね。ただ、そこは百戦錬磨のケンペル。神々が将軍や江戸城の人々に幸福を授けてくれるように祈ったのですと真っ赤な嘘をつく。(てか、そんなヤバい歌を唄うなよ!笑)

 そんな危ない橋を自ら渡るような性格だから、外国人が鎖国中の日本の情報を持ち出すのは厳禁だったにもかかわらず、平気でメモをとりまくる。平気でスケッチを描きまくる。

 オランダ語などヨーロッパ系の言語を使えば、日本人にバレるかもしれないから、あえてペルシア語を使ったらしい。これならバレても、文字じゃなくて汚れと勘違いしてくれるだろうって。かなりのポジティブシンキング。

 でも、絵はさすがに言い逃れできない。どうしたかというと、自分の監視係だった役人といい関係を結んだらしい。具体的には最新の医学を伝授する代わり、日本の情報を国外に持ち出すことに目をつぶってもらったようだ。

 発覚したら即処刑。なのに、そんなことをやったのは知的好奇心を満たすため。かつ、自分を送り出してくれた人たちの期待に応えるため。なんでも、ケンペルはその観察眼を高く買われ、ぜひ日本で見たきたことを発表してほしいと事前に頼まれていたんだとか。

 いずれにせよ、その目的は見事に果たされ、日本国内でもほとんど記録のない江戸の実態が歴史に残ることになった。それが『日本誌』なのである。

 興味深いのはそんなケンペルだが、将来憐れみの令を非難していないという。当時、将軍の悪口を耳にしたとは書いているけれど、それが悪法であるとは言っていない。

 どうやら、生類憐れみの令を理由に綱吉を貶める評価は後世なされたものかもしれない。でも、誰が?

 この新書の著者であるベイリーさんの見解によれば、綱吉は儒教を熱心に学び、古代中国の政治に理想を見ていたという。それはいわゆる文治主義というやつで、乱世を生き抜いた武士たちの価値観と全面的にぶつかったそうだ。

綱吉は、かれ以後のどの将軍よりも熱心に、日本に儒教を広めようとしたことで知られる将軍だが、そればかりでなく綱吉は、儒教の古典的文献の中で中国古代の理想の君主とされた堯や舜と同じような一己の理想的君主として日本を統治しようとした。しかし、たしかに儒教の聖典の中で堯や舜の政治は、ひとつの理想を体現したものとして絶賛されてはいるが、この理想を日本で現実のものにするためには、ひとつの大きな政治的変革が加えられなければならなかった。堯も舜も、絶対的な君主であり、日本の将軍とはちがい、その政治的権威を地方の有力な豪族にまで及ぼした。このような理想を日本において現実のものとするということは、とりもなおさず諸大名の権力を低下させる、ということを意味した。

『ケンペルと徳川綱吉: ドイツ人医師と将軍との交流』130-131p

 そして、綱吉は自らに政治権力を集中させるため、すべての問題を解決しようと尽力した。

 江戸幕府も5代目に至り、組織が硬直化。みな、官僚的になっていて、与えられた範囲の仕事しかしなくなっていた。そのため、ルールが定められていない問題に手をつけるものはいなくなり、貧困や格差の広がりが放置されていた。

 この見て見ぬフリは儒教の教えに反するので、綱吉は部下たちに対応を指示した。大老・堀田正俊はその著書『颺言録』にこんなエピソードを残している。

ある日、正俊が従者をつれて桜田門の外を通った時のことである。浮浪児が二人、道ばたで泣いているのを正俊は見つけ、かわいそうに思って、子どもたちを救おうと考えた。しかし正俊は思いとどまった。大老という最高位の役職者にとって、浮浪児を直接に救済することは、役務の範囲を超えることだったからである。後日正俊がこのことを将軍に伝えると、綱吉は次のように言った。「これ汝の惑ひなり。仁の心の欲するところ、何ぞ事の小大を論ぜんや。日月、照らさざるところなく、織芥の徴も、皆その光を受く。汝、小事に忍びざるを以て過ちとなすは、還ってこれ、汝が過ちなり。(貧者を救うのは自分の職務の範囲を外れることだと考えたとすれば、それは汝の心の迷いのあらわれである。人間愛の心を発揮するのに事の大小は関係ない。太陽と月はどんなに小さなものでも照らしているではないか。もし汝が些細なことにまで同情心を注ぐことを過ちであると考えたとしたら、むしろその考え自体が誤りである)」。

『ケンペルと徳川綱吉: ドイツ人医師と将軍との交流』131-132p

 このような状況を考慮しなければ、なぜ、生類憐れみの令が出されたのか、現場の武士たちがそれに大きく反発したのか、理解することはできないだろう。

 綱吉としては弱者を救うための法制度を作りたかった。でも、それは相対的に武士の地位が下がりそうな雰囲気に満ちている。最下層の人たちの差は縮むわけだから。

 本当は可哀想な人たちが救われたからって、豊かな人たちの生活には関係がないはずだけど、ただでさえ江戸幕府の支配を納得していない地方の藩主としては受け入れ難いことだった。そのため、なにがなんでも従うもんかとなってしまった。

生類憐みの令によって、綱吉は二重の方法で、武士の伝統的特権を侵害していった。当時武士たちは、刀を社有しているからこそ、自分たちには社会的地位が保証されているのだ、と考えていた。綱吉はまず第一に、このような考えを禁じた。第二に綱吉は、武士が有すべきは、社会に奉仕する役人としての地位であり、その役人たるや、犬にさえ配慮の気持ちを忘れてはならないのだ、ということを示したのである。貞享四年(一六八七年)、老中たちは綱吉の発した法令に勝手な変更を加えて実効性のないものにしようともくろんだが、この一件以来、生類憐みの令は、将軍と重臣たちの間に繰り広げられる権力闘争のシンボルとなった。将軍はあとに引き下がれなくなり、その結果、生類憐みの令は追加に追加を重ね、とうとう常軌を逸したものにまてま変化していった。

『ケンペルと徳川綱吉: ドイツ人医師と将軍との交流』137-138p

 意地の張り合いで大事なことが見失われてしまったのだろう。容易に想像できるし、その後の歴史を踏まえれば、綱吉の側が間違っていたことにされてしまうのもあり得る話だ。

 おそらく、我々が漠然と持っている犬公方・綱吉のイメージはそこから来ているのだろう。

 ただ、綱吉の治世で捨て子や子殺しが禁止されたこと、経済的理由で親が子どもを育てられない場合は役人が代わりに育てると定められたこと、妊婦と7歳以下の子どもの生活を保護したこと、ホームレスのために食事と宿泊所を用意したこと、牢屋の福利厚生を整えたことなど、近代的な福祉をいち早く実践していた点を忘れてはいけない。

 犬の保護もその一環だったという説がある。

 大名たちが鷹狩りに使う犬を繁殖し過ぎて、飼育できなくなった相当数が町中は逃亡。子どもや病人など弱い立場の人たちを襲うようになっていた。対策として男たちは犬を殺したが、ちゃんと埋葬しなかったことで、腐乱した死体から病気が蔓延し始める。このままでは犬のせいで生活は成り立たなくなる。犬を適切に保護して、管理することは弱者を守るために必要な手続きだった。

 遠いむかしのことなので、なにが真実なのかはわからないけれど、生類憐れみの令がリアルタイムに評判が悪かったとしたら、命知らずのケンペルだったら言及したに違いない。わたしたちはそのことから推察をするしかない。

 と、より知りたかったことが知れて、ホッとしたのも束の間、最後、余談のようにドイツに帰国した後のケンペルの生活が紹介されていたのだけれど、これが抜群に面白くって驚いた。

 具体的には、50歳のとき、16歳の少女と結婚したみたいなのだが、ケンペルは初日から若い妻にモラハラをかまし続けたらしい。暴言を吐き、人前で罵倒し、公的なイベントへ一緒に出かけることを毎回拒否した。

 そんなあり得ない日々に妻は耐えるも、ケンペルが60歳を超え、病気がちになったとき、27歳となった妻はついに爆発。壮絶な復讐をスタートさせる。

 牛の糞を投げたり、食糧庫に鍵をかけて何日も外泊したり、顔に唾を吐いたり、町の至る所で夫の悪口を言いふらし、ケンペルのご飯をした室内用便器に盛って出そうとしたり(甥っ子がギリギリで止めたので未遂に終わったらしいが)。

 なんというか、めっちゃ昼ドラ!

 最終的に二人は離婚。妻としては自分を普通に妻として扱ってほしいだけだったのだが、ケンペルは最後まで、お前は俺の妻じゃないと認めようとしなかった。あくまで、子孫を残すためだけに結婚したのだと。

 どうやらケンペルには好きな人がいたらしい。その相手は綱吉の前で歌った先述のラブソングに出てくる「愛しい人」で、ベイビーさんによれば、それは腹違いの妹なんだとか。

 つまり、ケンペルは解しちゃいけない相手に恋して、死ぬまでそのことに悩み続けていたという。

 いや、もう、本当に昼ドラだよ! てか、韓国ドラマでリメイクしたら、Netflixで世界ランキング1位とれちゃうって!

 綱吉について知りたくて読んだ本だったのに、気づけば、感想はケンペル凄えになっていました笑




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