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【読書コラム】だからわたしは働いているとき本が読めなかったのか! - 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆(著)

 各所で話題になりまくっている『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ。

 こんなにも共感できるタイトルの新書に出会ったのは久々だし、これがベストセラーになっているということはみんなそうだったのかと驚いたし、なにより、この本自体が最高に面白かった。

 20代、わたしは大学生の頃からエンタメ系の仕事を始めたのだけど、たしかに本が読めなくなっていた。映画館に行けなくなっていた。ゲームができなくなっていた。

 脚本を書いたり、演出をしたりするから、新しい知識をインプットしなきゃいけないとわかっているのに、空いた時間はスマホをいじっていた。Twitterのタイムラインを見るか、YouTubeを見るか、ソリティアをやっていた。

 別に面白かったわけじゃない。ただ、そうしているのが楽だった。

 ただ、段々、なんのために生きているのかわからなくなってきて、たとえ生活が苦しくなってもこんな仕事辞めた方がいいと一念発起。というか、適応障害になってしまって、現在は至っている。

 働かなくなったら本が読めるようになった。映画館に行けるようになった。単純に余暇が増えたと言えばそれだけなんだけど、実感として、そうじゃない理由があるように思えてならなかった。ただ、それは個人的な問題であり、公言はしてこなかった。

 そんな折、三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』をネットニュースで見かけ、わたしのことだ! と衝撃を受けた。

 三宅さんも働き出してから、学生時代まで大好きだった読書ができなくなって、これはおかしいと仕事を辞めて、書評家に転じた方らしい。そして、それは自分だけではなく、読書仲間たちも軒並み本が読めない状況に陥っていたと知り、同タイトルのウェブ連載をスタート。反響が反響を呼び、書籍化に至るという流れなんだとか。

 労働と読書の関係性に気がついたきっかけは映画『花束みたいな恋をした』だったという。2010年前後のサブカル大学生にとって、あまりにリアルな恋愛を描き切った本作で、就職した男の子・麦くんがパズドラしかできなくなってしまうという象徴的な描写があった。

麦「俺ももう感じないのかもしれない」
絹「……」
麦「ゴールデンカムイだって七巻で止まったまんまだよ。宝石の国の話も覚えてないし、いまだに読んでる絹ちゃんが羨ましいもん」
絹「読めばいいじゃん、息抜きぐらいすればいいじゃん」
麦「息抜きにならないんだよ、頭入らないんだよ。(スマホを示し)パズドラしかやる気しないの」
絹「……」
麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら) 好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」
        (坂元裕二『花束みたいな恋をした』)

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』24-25頁

 このシーンはわたしも印象的だった。

 本当、働いていると好きだった漫画や映画、ゲームについて「へー、まだ続いているんだ」と言ってしまう量産型の大人になってしまう。そうなりたくないと思っていたのに、日々の忙しさから、気づけば浦島太郎になってしまう。

 三宅さんは加えて、そんな麦くんが社会人になってから、学生時代興味を持っていなかった自己啓発本を読み始める変化を紹介する。つまり、働いたからと言って、インプット時間がなくなるわけではなくて、インプットする内容が変わっていくということを言いたいのだろう。

 そこから250頁ほど読んでいくと、結論として、現代の労働環境は経済効率性が過度に求められているので、ノイズのない情報が歓迎されているという仮説が導き出される。その代表例がパーソナライズされたSNSであり、数秒単位で流れていくショート動画であり、やることが体系化されているアプリコンテンツである、と。

 対して、本は基本的にノイズであふれている。読み終えるためには何時間も必要だし、タイトルから予想される内容が書かれているとは限らないし、自己啓発本など目的が明確なものは別として、どういう風に役立つのかは不明である。自然、コスパとタイパの前に選択肢から外れてしまう。

 普通、両者をこのように比較したとき、欲しい情報だけ集めるのは危険なので、意図せぬ情報に触れられる読書をしましょうという話になりがち。電子辞書が普及したとき、紙の辞書を推奨する人たちはそう言っていたし、ネットニュースに対して紙の新聞を発行している人たちもそう言っていた。

 しかし、三宅さんのフォーカスはちょっと違う場所に当たっているので面白かった。というのも、ノイズを排除した生き方は苦しくないですか? と現代社会の働き方がこのままでいいのか、問いかける方向へと向かっていくのだ。

 具体的には、全身全霊である物事に取り組んだ果てに起こる「燃え尽き症候群」は鬱病リスクを高めるので、ノイズのある本を読めなくなるほど働かなきゃいけない状況の不健全さが語られる。

 てっきり、「みんな、もっとたくさん本を読め!」と主張したいのかと思っていたが、そうではなかった。本を読みたいのに読めないなんておかしいよ、と三宅さんは言いたかったのだ。ある意味でいい加減に生きることの大切さが示されていた。

 ただ、なにより素晴らしいのは、そこに至るまでの約250頁が日本の労働史になったいることで、明治維新以降、日本人はどのように働き、どのように本を読んできたかが時系列順にまとめられている。端的に『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』というタイトルからは想像もつかない内容だった。

 つまり、「本はノイズにあふれたメディアである」と伝えるこの本自体、ノイズにあふれかえっているのだ。こんなにも読書の喜びを体現している本は他にないだろう。

 なんとなく、雑談の楽しさに似ている気がした。

 とりあえず集まって、その場のノリに合わせて、好き放題ペチャクチャおしゃべりしたときにしか辿り着けないものがある。深夜に友だちと用もなく長電話することでしか味わえない幸せがある。

 客観的に見れば、無駄な時間なのかもしれない。ただ、主観的にはそういう無駄な時間こそ、人生のメインディッシュなんだと思う。

 文学部を卒業するとき、教授がこんな言葉を送ってくれた。

「みなさんが学んだことは、これからの仕事で、大して役には立たないでしょう。しかし、仕事は人生じゃないですからね」

 わたしたちは働くために生まれたわけじゃない。効率を追求していくと、生きていること自体が無駄ということになっちゃう気がする。それはあまりに本末転倒。

 本を読みたいときに本が読める生き方。単純だけど、それがいい。




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