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【映画感想文】疑わしきは罰せずのはずなのに…… 和歌山毒物カレー事件から26年目の問題作 - 『マミー』監督: 二村真弘

 見る前から問題作なのだろうとわかっていたけど、いざ見てみると、想像以上の問題作だった。和歌山毒物カレー事件をめぐるドキュメンタリー映画『マミー』のことである。

 ネット上では以前から林眞須美さん冤罪説は囁かれていて、真犯人の予想も頻繁になされていた。陰謀論めいたものから説得力のあるものまで、情報の精度にはばらつきがあり、正直、すべてを信じることは難しい状況ではある。

 本作はその中でも確実性の高い内容に注目し、関係者に対するしつこい取材を重ね、林眞須美さんの死刑判決に残る疑惑を一生懸命掘り起こしていた。そのため、一見すると既出の事実ばかりが並んでいるけれど、丁寧に整理を行ったという点で新しさがあった。

 例えば、世間的には林眞須美さんの長男が自分の思いを語ることに衝撃さを感じてしまうけれど、実は長年、精力的に発信活動をされていたことがわかる。出版もしているし、YouTubeで動画も出しているし、単にマスメディアが取り上げてこなかっただけなのだ。

 和歌山毒物カレー事件が起きた26年前。わたしはまだ5才だった。なので、事件発生時、どのように報道がなされていたかの記憶はまったくない。

 それでも記者に対してホースで水をかける林眞須美さんの映像は知っている。ヤバい人というイメージだけは着実に植えつけられている。

 ただ、今回、映画で取材が行われている当時の様子が紹介されていてビックリした。閑静な住宅街に何百人という記者が押し寄せ、道路に椅子を置いて音楽フェスに参加しているようなノリで居着いてしまっているのだ。

 林家は絶えずカメラとマイクを向けられ続け、隣家の二階からはバズーカみたいなレンズで狙われ、まだ有罪判決が出ていないのはもちろん、逮捕すらされていない状況で林眞須美さんのプライバシーは侵害されまくっていた。そりゃ、ホースで水ぐらいかけたくもなるだろうなぁと思わされた。

 90年代、メディアスクラムという言葉が使われ始める。もともとは英語圏の国々で、正式な場ではないけれど、政治家や有名人のまわりに記者が群がり即先の記者会見のようになる様を指していたらしい。日本ではこれが大きな事件の容疑者に対して行われたので、「集団的加熱取材」を意味するネガティブなワードになってしまった。

 そのはじまりは1984年のロス疑惑報道とされている。後に最高裁で殺人容疑の無罪を勝ち取る三浦和義さんについて、犯人に決まっているというスタンスの記事が週刊文春をはじめ、様々な媒体で取り上げられた。どこが先に決定的な証拠を見つけるか、推理合戦のような状況に陥り、自然と取材も過剰になっていった。

 いまと違って写真週刊誌が売れまくっていた時代。テレビのワイドショーが見られまくっていた時代。新聞が当たり前のようにどの家庭でも読まれていた時代。スクープがもたらす恩恵は計り知れなかった。

 結果、取材に割けるコストも多く、投入される人員も増大し、少しでもネタになりそうなことがあれば、田舎だろうがなんだろうが、あっという間に何百人単位の記者が集まる経済システムができあがってしまった。

 我先に新事実を伝えなくてはいけないというプレッシャーは誤報もまねく。

 1994年の松本サリン事件では被害者だった河野義行さんを犯人とする警察の見立てをそのまま報道し、世間の空気で冤罪を作り出してしまった。このとき、ちゃんと捜査が行われていれば、サリンとオウム真理教のつながりを発見し、後の地下鉄サリン事件を防ぐことができていたかもしれない。

 1997年の神戸連続児童殺傷事件では猟奇殺人をエンタメのように扱い、ちょっとした情報をもとにそれぞれが無責任に犯人の推理を行った。犯人が逮捕された後も、あえて法律を無視した報道を行ったとして、週刊誌の是非が問われることになった。

 当然、メディアスクラムに対する批判は相次いだ。ただ、いまと違ってインターネットが普及していないので、一方的に情報発信を行えるマスメディア側に変化はなかった。 

 そんな状況が変わるきっかけこそ、1998年の和歌山毒物カレー事件をめぐる報道だったと言われている。林夫妻が逮捕された後、誹謗中傷はピークを迎え、林家の壁はひどい落書きで埋め尽くされた。事件の裁判において、和歌山地裁は報道のあり方について注意を促している。これは異例なことだった。そして、2000年、林家は火をつけられて全焼してしまう。

 さすがに無視はできないということで、2001年、日本新聞協会と日本民間放送連盟はメディアスクラム対策を発表。以降、ガイドラインに則り取材は行われることになっている。

 そう考えると、和歌山毒物カレー事件の報道が客観的に過剰であったことは間違いなかった。警察とマスコミがストーリーを共有し、まるでそれが事実であるかのように世論を形成することで、事件を終わらせにかかっていた可能性は十分にある。

 たしかに、林眞須美さんは怪しいのだ。というか、林夫妻があまりにも怪し過ぎて、エンタメとして事件を消費する場合、犯人扱いせずにはいられない魅力を持っている。

 なにせヒ素を使って保険金詐欺を繰り返していたんだもの。本作では夫である林健治さんも出演しているのだが、詐欺をしていた頃を楽しそうに振り返っていて、あまりの大胆さに笑ってしまった。「高度障害狙おう思うて」とカジュアルに言ってのける様は、逆に、気持ちがいいほどだった。

 でも、現実はエンタメじゃない。どんなに怪しい人であろうと、犯人と特定するにはちゃんとした証拠がなくてはいけないはずだ。

 もちろん、その後、最高裁で死刑判決が出ているくらいなので、科学的な調査に基づく証拠は提出されている。ただ、その証拠が現代の技術レベル(下手すると当時でも)からすると杜撰だったのではないかという指摘があり、本作はそこもしっかり追求していた。

 正直、わたしは専門知識がないので、そういう可能性もあるんだぁ、ぐらいしかわからなかった。とはいえ、死刑という重たい判決を下す以上、証拠に疑わしさが残ってはいけないと強く感じる。そういう意味では、林眞須美さんサイドが再調査を求めるのは当たり前なことだと思う。

 国としては証拠に疑わしさはないという見解なのだろう。最高裁もだからこそ、死刑判決に至ったわけで、再調査には応じられないというか、応じる必要がないと考えているのだろう。仕方ない。社会はそういうふうにできているから。

 しかし、本当に、それでいいのか? 憤りを覚えずにはいられなかった。

 そんな風に気分が高まったところで、たぶん、映画は終わりを迎えると思っていたら、そこからまさかの監督をに関する衝撃の展開があり、度肝を抜かれた。

 完全にやられた。ジャーナリズムを見ているつもりになっていたので忘れていたけど、これは映画。作られたものなのである。

 たしかに日本のドキュメンタリーの割に監督自身がけっこう出演しているなぁとは思っていた。マイケル・ムーアみたいに撮影者の責任を果たす意志は感じたけれど、それ自体が仕掛けになっていたとは!

 この結末も含めて、想像を超えた問題作だった。

 林眞須美さんが無罪なのか、わたしにはわからない。同じぐらい、有罪なのかもわからない。夫婦で保険金詐欺をしていた点でアウトローなのは確実だけど、和歌山毒物カレー事件の目撃証言は弱いし、検察の取り調べは強引そうだし、証拠となった科学的根拠は怪しいし、動機は不明だし、たしかに、死刑判決は不当な気がしてくる。

 でも、そんな気がする理由はこの映画を見たからなわけで、これまではネット記事に諸説ありと書いてあるという認識があった程度で、林眞須美さんが無罪かもなんて、真剣に考える機会なんてなかった。

 そう。この映画を見るまでは。

 メディアの力は強い。作り手がひとつのストーリーを真実と信じ、みんながそう思うように情熱いっぱい作品を仕上げれば、世間の印象なんて簡単に変わってしまう。ただ、その創作活動が正当に作られたものであるか、わたしたちは作品を見ただけではわからないし、その作品の外にある価値観に気がつくことはできない。

 二村真弘監督はこの作品でメディアが宿命的に孕んだしまう不確かさを明かしてくれた。自らの信用度が下がってしまうことを恐れず、メディアの本質的問題を示してくれた。

 結果、誰かを犯人と決めつけて、その思い込みに基づく物語を世界に向けて発信することのグロテスクさが浮き彫りになる。疑わしきは罰せずのはずなのに、わたしたちは疑わしきを罰し過ぎているのかもしれない。




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