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同情を誘い、何かを得ようとする行為の害悪性

同情を誘い何かを得ようとすることに対し、
私はとても腹立たしく思う。

そもそも同情とは誘うものではなく、
してもらうものなはずだ。

それなのに誘って何かを得ようとは
言語道断である。

この害悪性については、
同情の発生過程を確認する必要がある。


同情が発生する過程には、
まず当人に同情される原因があることが必要不可欠だ。

それは多種多様であるが、
基本的には大変な目にあったという共通点がある。

そして大変な目にあった当人は
第三者に何らかの形で同情してもらう原因を認知してもらい、
同情してもらう。

これが同情の簡易的な発生過程だ。


しかしながら、
この同情における原因の認知には
当人が自発的になるか否かという分岐がある。

自発的とは、自ら同情にたる原因を
周囲に伝えることだ。

これによって周囲の人間に
自分に降りかかった事態を認知してもらう。

自発的でない場合、
それは本人が意図していない形で認知してもらうことであり、
自らは原因を伝えようという意思がない。

この段階では害悪性はそこまで生まれていないが、
私が問題としたいのは前者の自発的に認知される方だ。


原因を認知した側は多くの場合
同情や慰めなどをするだろう。

それは、多くの人間が持っている
道徳観によって起因する行動だ。

同情にたる原因を認知した側は、
自分の意思とは裏腹に同情をしてしまう。

そこには可哀想な人に
同情や慰めをしないと
人間として冷たいという道徳観が存在している。

困っている人には優しくする
という多くの人が持っているであろう道徳観がある。

これは今回の場合にも適用される。

つまり、この状況において、
原因を認知した側は行動が縛られ、
自発的に原因を伝えた側はこの瞬間
道徳観の名の下に立場的優位に立つ。

もし同情をしないという選択をした場合、
同情をしなかった人は冷たい人という烙印を押されるだろう。

それを避けるために同情をする。

これが自発的に原因を認知させた時に生じる状況だ。

害悪性が増大するのは次の段階である。


次の段階は、何かを得ようとすることだ。

ここで害悪性が増大する。

正直、自発的に原因を認知させ、
同情を誘っているだけであれば
こうしてnoteに書くこともなかった。

真に問題なのは
同情を誘ったのちに何かを得ようとする行為なのだ。


先ほど原因を認知させ同情を誘った場合、
立場的優位に立つと書いた。

この状況において何かを得ようとする行為は、
この立場的優位を利用し要求を半ば強制的に
通そうとしていることに他ならない。

言い換えるのであれば、
自分の要求を通すために
同情を誘って断りづらくする行為と言えるだろう。

これはとても害悪性があると私は考える。

なぜ害悪性があると言えるのか。

そのためには、
同情を誘うという行為で生まれる立場的優位を
考察する必要がある。


この立場的優位とはただ立場が有利なのではなく、
道徳的に有利というのが厄介だ。

そもそも両者の間に立場の優劣を作り、
要求を通そうとする行為が害悪である。

それは弱いものが強いものに対し、
自分の意思で受け入れるか否かを決められないからだ。

しかし、これは普遍的な害悪性ではない。

例えば、学校がそれに当たるだろう。


学校において教師と生徒には
明確な上下関係が存在する。

教師側の命令に対し、
生徒側は基本的に従う。

なぜ生徒は命令に従うのか。

生徒側が教師に対し盲信的になっていることや、
まだ判断能力が育っていないため従っていることも原因にある。

それ以外で重要なのは、命令が教師の私的な利益目的でないことだ。

教師の命令に筋が通っており
生徒がこの命令に従ったほうがいいと判断した場合、
この関係性は害悪性が含まれているだろうか?

生徒自身にはほとんど命令を聞くしかないが、
それは至極真っ当な行動選択である。

このようなケースもあるので、
両者の間に立場の優劣を作り、
要求を通そうとする行為は普遍的な害悪性を
持っていないと言える。


話が脱線してしまったので本題に戻す。

道徳観による立場的優位性が発生した場合、
立場の弱いものは善い行いしかできなくなる。

それは、人間が社会性をもつ生物だからである。


人間は社会を築き、
そこに属すことで生きている。

そのため、この社会性を大切にしなければ
そのコミュニティで生きていけないのだ。

そのため悪い行いはせず、
無難か善い行いを常にしようとする。

これによって人間の行動が制御されているが、
さらに制御させるのが今回の話だ。

同情に足る人の要求を断ることは
基本的にその人の社会性を傷つけることと同義だ。

つまり、断ること=悪い行いになる。

そうすると要求を断るわけにはいかない。

こうした構図が浮き彫りになる。


まとめると、
同情を誘い何かしら要求をすることは、
道徳観の名の下に半ば強制的に行わせることに等しい。

そのため、要求をした方は
頼む人が断らないと踏んで要求するわけであり、
要求された側は断るわけにはいかないという害悪性がある。

そこに私は腹が立っているのだ。

要求があるのであれば、
正々堂々正面きって伝えるのが誠意なのではないだろうか。

同情という武器を持って要求することは
到底善い行いではないだろう。

同情を誘うことで
道徳的な意味で立場的優位に立ったのに、
することが道徳的に悪い行いとはとんだ皮肉である。


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