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狂人 | 「普通」という呪い

「『普通』になりたい」
ずっとそれが夢だった。
物心付いた頃から今も、きっとこの先ずっと。死ぬまで。

ふ‐つう【普通】
[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。「今回は―以上の出来だ」「―の勤め人」「朝は六時に起きるのが―だ」「目つきが―でない」

出典:デジタル大辞泉(小学館)


まず初めに言葉があるように、きっと僕は何度もこの「普通」という概念を色んな方向から考えた。それでも僕は自分のことを「普通」だとは到底思えなかった。

普通に働けない。
普通に生きられない。
普通に恋人と過ごせない。
普通に幸せになれない。
普通のことが分からない。
普通に…普通に…。
みんな、当たり前のように普通をやってるんだもん。
普通の人が言う「『普通』って何?」みたいな返しが嫌いだ。
慰めにも似た憐れみはもういいよ。
分かってるんだ、普通じゃないって。


その一方で、自己卑下したり、自分で自分のことをこき下ろすのはきっとある意味では選民思想的な気がする。「自分以上に最低な人間が居ない」というのは他人への優越感や、全能感。自分より下が居ないという意味で、「自分がいちばんすごい人間」だと思い込んでいるのときっと同じだ。

僕はきっと自分のことを自分で愛せていない。認めきれていない。
だから、誰からどんなに褒めてもらおうと、評価されようと自分に自信なんて生まれないし、自分がこの世界に生きていることすら罰を受けているように感じてしまう。

人間がいちばん最初に獲得する愛着形成がなされていない。だから愛が何なのか、よく分からない。だから他人を徹底的に愛することも出来ない。今もずっと埋まらない穴を必死に埋めようとしている。埋まるはずのない空虚を。


でも、最近はこうも思っている。
僕はしっかりと自分の使命を全うしている

こんな残酷な世界に勝手に産まれ落とされ、「普通」という白線からはみ出したら終了の日本という国で生きながらえている。必死にのたうち回って、失敗し続けている。それでも生きているんだ。偉すぎでしょ。

一度たりとも失敗することは許されない国。失敗したらもうそこからは人間扱いはされなくなる。人権という言葉を使うのはどうかと思うけれど、正直人権なんて二の次三の次になる。皆がそういう色眼鏡で僕を見ている。そういう僕も僕自身をそう見ている。

失敗だらけ、怪我だらけ、今日一日すらも綱渡り。マスメディアの偏向報道、近所からの冷たい視線、そんな僕を支える家族の想い、やらかしても手放さずに支えてくれている人たち。

「普通」どころか、びっくりするぐらい自分は恵まれているじゃないか。頑張ってやっと出来ることも、頑張ったってどうしても出来ないことも同じぐらいある。もう自分で言っちゃうけど、本当に頑張ってる。やっと僕は僕を認められたのか。


僕は諦めの悪い人間だから、この先もずっと「普通」を目指すだろうし、それが自分の今の状態から脱却できる足掛かりのひとつであるということは間違いない。

「普通」を目指しながら、出来そうなことは続けられるところまで続けてみる。出来なさそうなこともとりあえずはやる。出来なくても最初から出来ないと思ってたんだから挑戦したという事実だけは生きる糧にはなる。

そう思うと、「普通」がなぜか自分の生き方の下位互換にすら思えてくる。これはまた不思議な話だ。「普通」を軽々と乗り越えて志の高い狂人として生きていこう。


この記事を読んだ人で「普通」に悩んだ人が居れば「普通」に出来なかったことを教えてください。そして、それを今はどう考えているかを語り合いたい。

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