プラムとプロム
私は明日高校を卒業する。
初夏にはバラでいっぱいになる母が手塩にかけた庭で、母は私に言う。
伏せ気味な母の顔には今まで見せたことのない少女のような照れが浮かんでいるようだった。
「明日式が終わったら、私とここで踊って」
私の母はアメリカ生まれアメリカ育ち。母の両親、私にとっては祖父母の仕事の関係から、卒業式を迎える前に日本へ来ることになったらしい。
だから母は参加したかった「プロム」に出られなかったと、私の制服のクリーニングに出した帰り道、私の卒業式が数日と迫った夕方に語った。
「プロムって、なに?」
私が尋ねると母はいつもとは違う少女に戻ったかのようなあどけない顔をして答えた。
「卒業する前にお誘いされたパートナーと2人で参加して、ドレスアップした私でダンスしたり豪華なお料理食べたりする、ティーンエイジャーには大切なパーティーなの」
私には馴染みがなく想像がつかない。だから私は色が曖昧な空を見つめ、叶えられなかった過去を見る母よりもぼんやりとした相槌だけを打った。
卒業式までは自由な時間ばかりだ。
そうはいっても引越しの準備や、進学への期待や不安でふらふらしている。
母と一緒にいられる時間も残り僅かである。
母から聞いた、プロム。なぜなのかずっと心に引っかかっている。
プロムそのものよりも、プロムを語る母の顔が忘れられない。
昼間の間延びしてはあくびが出てくる時間、私はパソコンの前に座る。
検索するのは「プロム」。母が出られなかった「プロム」
検索すると、以前海外の映画で見たことのあるような写真が検索結果として出てきた。
私の知る母は庭でバラを育てたり、家で編み物を好む人だ。
そんな母がこんなに人でひしめき合うパーティーなんかに、学生時代とはいえ興味があったなんて私には意外だった。
もしかすると好きな人から誘われたとか?
想い出つくりがすごくしたかったとか?
娘ながらいくら想像しても母の気持ちを汲む手がかりすら私にはなかった。
その矢先である。
母が私に「明日式が終わったら、私とここで踊って 」と言われたのは。
庭の物干し竿から洗濯物を2人で取り込り終わったときだった。
まだ空は朱くなる直前の黄色を多く含んだ青色をしていた。
着慣れた制服はクリーニングに出したおかげでしっかりとしたハリが出ている。まるで他人のもののようにも感じる。今日でお別れするものの、ひとつなのに。
同級生も校舎も過ごしてきた時間を棚にあげて別れを惜しんでいる。
私は今日だけ、卒業独特の空気に居心地のわるいむずむず感にずっと苛まれた。
式まで教室で待機する。
クラス中にそわそわとした高揚感があり、仲間内ではしゃぐクラスメイトたちは写真や動画を撮り合う。その群れから離れて、私は窓を眺めていた。
外は晴れやかで、春の快晴に恵まれた。こんな日なんて最近はずっと続いていたのに。今日だと貴重な気分になるのはなんて不思議なものだ。
呆けていると私にクラスメイトが「何見てるの?」と声をかけてきた。
別に何を見ているわけではなかった。だからすぐに答えることができなくって、あわあわすることしかできなかった。
少し間を空けて「さ、さくらがキレイだなって見てた」と答える。
するとクラスメイトは「あれは梅だよ」と訂正してくれた。
うめ?
クラスメイトは続ける。
「パッと見、桜と似ているけど桜はまだ時期が来てないよ。それによく見ると花びらの形がちがうんだよ。梅は花びらに切れ込みがないの」
へぇ~と、興味あるのかないのか分からない変な返事をしてしまう。
「この教室から見える花は梅で、校門の近くや学校の塀の近くにある樹が桜だよ」と丁寧にクラスメイトは教えてくれた。
初めて知った。
クラスメイトは教えてくれた途端、また別のクラスメイトへと話しかけにいった。
私が感心する間のことだった。
式は何事もなく、すんなりと終わった。
教室では卒業という独特の高揚感が、式を挟みはしゃぐ色から別れを悲しむ色へと大きく色を変えた。
こうも色んな気分を乱高下させられるクラスメイトたちに恐縮する。
担任すらこの空気に呑まれている。何度もしてきたであろう人ですらこうなるのなら、クラスメイトたちが泣いたり悲しんだりしててもいいのかもしれないと、ひとり納得していた。
高校生の肩書きが足を引きずるようなホームルームがやっと終わり、私は晴れて高校を卒業した。
過ごしてきた場所への愛着が引っ張る哀しみはあるが、それよりも窮屈に閉じ込められていた教室や校舎やこの制服から離れる開放感の方がよっぽど強く感じられた。
私は高校生の肩書きをやっと下ろした。
いつもの通り下駄箱を抜けて、今日は最後だからと教室から見た梅を見に行く。
遠くから見ても桜だと信じて疑わない。
近付いていくが、考えは変わらない。
桜だよね、これ。
白い花は花びらを5枚持っている。違いが分からない。
スマホを出して検索してみる。
「梅 桜 花 違い」
するとスマホは答える。「桜は花に切れ込みが入っているが梅にはそれが見られない」と。
よくよく目を凝らして花を見てみる。
すると花びらには切り込みらしい切り込みなどがなく、小ぶりでまるさのあることがちゃんと分かった。
しっかりとちゃんと見れば違いはよく分かる。
校門をくぐる前にまだ蕾すら芽吹いていない桜を見る。目を凝らしても花は見えない。花の切れ込みは確認できない。
卒業証書の入った筒を持ち、帰り道につく。
この筒や証書をもらうために3年も高校生をしてきたわけではない。
それでも私に残った目に見えるものはこの筒と証書だけのように感じる。
学習してきたことや縁のできた人たちや、思い出たちはこれからありがたい存在になっていくのかな?
いまはまだ計り知れない想いを、未来の私への課題にしておく。
家に帰り着くと母がざわざわと何か支度している雰囲気を察する。
私は今から母とプロムをする。
声をかけたが返事がなかったので、もいちど声を
かける。
ただいま。
今度こそ応えがあり、母の部屋の方から「おかえり」の声があがった。
リビングに筒を置いて私は母の部屋に向かう。
引き戸を開くと私の知らない人がそこにはいた。
肩を惜しげも無く出したワインレッドのカクテルドレス姿の母は、私の知らない人だった。
私に振り向くと、他人をより強く感じる。
ドレスに合わせたメイクはいつもの薄化粧な母なんかきれいさっぱり忘れ去らせる、インパクト抜群の美しさを喰らった。真っ赤なグロスにチークやアイメイクにはピンクをふんだんに使っている。
鳩が豆鉄砲を喰らった、そんな表情を私はしていたのだろう。
母はずいぶんと黙る私に「びっくりした?」とその姿と相反するあどけない表情で微笑む。
自分の母ながら、私は見惚れていたのかもしれない。
「び、びっくりするでしょ!いつもと全然違うんだから」
少し虚勢を張ってみる。でも私の虚勢なんて母にはバレバレだろう。
「プロムにって久々に出してみたの。ちゃんと着られてよかった」
ふふと笑いながら母は言う。
「卒業おめでとう」
庭に出たところで母は言う。
「ありがとう」
恥ずかしいけどここでちゃんと感謝を言うべきだと私はこのとき直感した。
履き慣れない深いワインレッド色の高いヒールに鮮やかなワインレッドのカクテルドレスな母と、履き潰したローファーで紺色のブレザーな私。
初夏には母の育てたバラが咲く庭で2人、両手を繋ぎ見つめ合っている。
私も母も初めてのプロムを今からここでする。
遠く音楽が聞こえる気がする。
「プロムはパーティーだから踊るの。咲(さき)ちゃん、踊ろ?」
私の名前を呼び母は踊る。私もそれに倣って踊る。踊るなんてものじゃない。2人で見つめ合って両手を繋いでくるくる廻る。うっすらと流れる音楽に音を取ったり息を合わせたりするだけ。不格好な踊り。
母は楽しそうだ。
楽しそうで、どこか遠くを見ているように感じた。
いつもの私だったら見過ごしていたかもしれない。ただ今の私はよく見ることを覚えた。
そのおかげで母の見るものが目の前にいる私ではないことに勘づいてしまった。
ひとしきり踊ると母は疲れたのか私に寄りかかってきた。
背丈がヒールによっていつもよりも高くなっている母を抱きとめながら、私を強く抱き締めてくる母に抵抗せずにいる。
「ありがとう」と言う母は私へ言っているのか疑問ではあるが、今はそんなことどうだってよかった。
母はきれいな人だ。
見た目はいつも質素なのに心は純白のようで、きれいだと私は思う。
花が咲くように着飾ると見惚れるほど美しくなり、内に宿す慎ましやかな佇まい、行動を起こせば艶やかに記憶に残ることをする。
ふと教室から見た梅の花が私の頭の中に浮かんだ。
「本当は」
母が話しはじめる。
「プロムは夏にするから、本当はバラを見ながらしたかったけど咲ちゃんの卒業に合わせると残念ながら時期がちがったのよ」
ポツリと独り言のように母は言う。
「ママは梅みたいでキレイだし、今日はママが主役なんだから今日でよかったよ」
なぜか無意識に私はこう返していた。
母はいよいよ大輪の花のように笑った。
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