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「チンチン電車が走っていた昭和の街角」

 「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ108枚目

96チンチン電車

<「チンチン電車」©2021もりおゆう 水彩 サイズF5>

昭和40年代までは、日本中でチンチン電車を見る事が出来た。
あなたの街にも走っていませんでしたか?

チンチン電車(路面電車)は、古くは明治、大正の昔から第二次大戦を挟み、戦後20年以上に渡って日本の各市街地とその周辺地域を繋ぐ人々の大切な足として活躍した。

私の郷里でも、柳ヶ瀬と言う岐阜市の大繁華街と郊外の村々を繋いで谷汲(たにぐみ)線という路面電車が走っていた。

柳ケ瀬は往事には土日ともなれば肩をぶつけなければ道を歩けないほどの活気のある街で、美川憲一の柳ヶ瀬ブルースで全国的にも有名になった歓楽街でもある。

私はそこで育ち、谷汲線は私の実家のまん前を走っていた。
後になって母親から聞いたのだけれど、まだ母親が若い頃に私を負ぶって街を歩くと、「でんしゃ、でんしゃ、」と私が手を叩いて喜んだとの事。

しかし、その路面電車も成人して東京へ出た私が数年ぶりに帰省すると、跡形もなく消えていた。当時は岐阜のみならず、全国で同様の事態が次々と起きていた。

日本は急速に車社会に変わり、昭和20年には全国で14万台程度にすぎなかった自動車保有台数は、昭和35年には300万台に迫る。わずか15年間で何と約20倍にもなったのだ(国交省統計による)。

当然の事ながら、路面はチンチン電車と膨大な数にふくれあがった車で大渋滞を起こす。

時代は車社会への大転換期にあり、殆どの地方行政は車優先社会を推進していたため、チンチン電車は車の邪魔になる「旧時代の乗り物」とされてしまう。車が増えた事による大渋滞はさらに悪いことにチンチン電車自体の運行スピードを落とし、時間のかかる乗り物とされたことも不幸な事だった。

こうして、日本各地で路面電車不要論が行政や自動車関連団体から声高に叫ばれるようになる。

「そこのけそこのけ車が通る」 まさにそんな時代だった。

他にも基幹産業(その地域の経済基盤となっている産業)の疲弊等、様々な理由が重なり、赤字運営を余儀なくされた路面電車は次々と日本の社会から消えていった。どの地域にも廃線を惜しむ沢山の人々の声があったが、ノスタルジィで赤字運営を賄う事はできないという現実の前に、各地で路面電車は廃線の憂き目となったのだった。

しかし、一方ではコストをかけても路面電車を残す選択をした地方都市もある(熊本や岡山/他)。それは全国で17市町村にも及ぶ。今やそう言った地域ではチンチン電車が繁華街を再生する観光アイテムになっており、地域の人々に愛され大いに地方都市の財政に貢献している。
*そもそも、路面電車を残した地域では中心部の繁華街の衰退に歯止めがかかっていたとも言われている。古いものを大切にする心は、ただのノスタルジィではなく、時に暮しを救うものだという良い例ではないだろうか。

路面電車が無くなって数年後のある年に再び帰省すると、年老いた母が家の前の歩道に出て私を待っていた。
「よぉ(よく)帰って来たね、おきゃあり(お帰り)」
と家の中へ私をいざないながら、母は電車通りだった目の前の道を眺めてさらに言った。
「チンチン電車が無くなって柳ケ瀬の街は淋しゅうなってまったに、、、
 昔はあんたを負ぶって賑やかやったこの道をよぅ歩いたもんやが、、、
 タワケらが電車を取ってまってからみんな駄目になってもうた、、、」と。

往事を懐かしむ母の顔には、街が取り返しのつかない事になってしまった事への無念の思いと絶望が滲み、答える術もなかった。

先年岐阜で信長祭りが行われた際に柳ヶ瀬の町は大盛況となった。この時に実家に暮らす義姉が昔に戻ったようだ、、、と涙していたことを聞き及び、やはり胸が詰まる思いだった。

母も義姉も既に亡くなり、私も遠く郷里を離れて50年を過ぎるが、あの路面電車を残してくれていたらこの街の今はどんな風だろう、、、と思う。



<©2021もりおゆう この絵と文は著作権によって守られています>
(©2021 Yu Morio  This picture and text are protected by copyright.)

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