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泥沼料理教室 第4話

弁護士の車に乗せてもらい、自宅へ向かう途中、妻からやたらめったらメッセージが届いてくる。

今どこにいるの? 何で帰ってこないの? 親が急にうちに来るって言っているけど何か知っているの? などなど。家を出てから何の連絡も入れてこなかったのはおそらく三橋と会うのに都合がいい状態だから。しかし、急に三橋と音信不通にでもなったのだろう。妻の性格からすると動揺するはずだ。加えて、義父からの「今からそちらに行く」と言う突然の電話。何か察したのかもしれない。胸の中のスマホはうるさいくらいにメッセージの着信バイブを鳴らしている。いい気味だ、とは思わなくもないが、気持ちは複雑だった。別に妻を陥れたくて今回の動きをやっているわけではない。しかし、殺意を向けてくるようになってしまった妻との関係を清算しないわけにはいかない。よりを戻したいわけでは絶対にないけど、男の三橋があのうろたえようと動揺している様を見せたのだ。妻が果たして正気でいられるかどうか。

車をパーキングに入れ、かつての自宅の前に立つ。
新婚時代から住み続けたマンションだ。妻との夫婦生活の終焉も同じ所か、と思うと何とも言えない切なさが胸の奥に広がる。俺と弁護士、義父、義母の四人で玄関前に立ち、俺が呼び鈴を鳴らす。ドアにパタパタとスリッパの音が近づく。カギを開ける音がし、ドアを開けた。カギ持ってるんだから自分で開ければいいでしょ? と不満げに言う妻の表情はすぐに、ぎょっとなった。俺と一緒に、義父母、そして妻にとっては全く面識のない男、弁護士の四人が玄関前に立っている。義母の口からはすでに嗚咽が漏れている。ただならぬ様子に、妻の顔は凍り付いたように固まっている。俺たち四人は部屋に入り込んでいった。

お茶を入れようと台所に行こうとする妻を制して座らせた。ソファーには俺たち四人、床には妻が座った。何だか、時代劇で見たお奉行様と下手人みたいな感じだ。義父と義母は一切口を開かなかった。義母はハンカチで涙をぬぐい、義父は爪が食い込むくらい自分の膝を握りしめていた。義父母に沈黙を貫くように指示したのは弁護士だった。義父母が妻を責め始めると収拾がつかなくなり、話し合いが進まなくなることを予見しての事だった。弁護士は自分の名刺を妻に渡し、俺の代理人であることを告げた。眼をまん丸くして俺と弁護士を見比べるように視線を往復させた。三橋の時と同様、弁護士は説明の前に黙って浮気の物的証拠をテーブルに広げ、淡々と説明を開始した。三橋との浮気がバレたこと、そして、俺の食事にホウ酸を混ぜて俺を殺そうとしたこと。刑事告訴も視野に入れているが、告訴した所で不毛であるので、金銭での示談を望んでいること。そして三橋の時と違い、俺が一番最後に、テーブルに離婚届を広げ、サインと捺印を迫った。

妻の顔がみるみる青ざめていく。示談書の金額を見て声を荒らげた。こんなのインチキだ、女は離婚したら慰謝料をもらえるはずだ、三橋さんが言ってた! あんた本当に弁護士なのか、偽物じゃないのか、俺や両親をだましているんじゃないのか? と、見たこともない表情で喚き散らした。見かねた義父が何かを口にしようとしたのを弁護士は制し、言葉を継いだ。名刺を弁護士会に照会してくれれば自分が偽物でないことはすぐにわかる、と言い、反論し、示談を蹴るなら、今から警察を呼んで逮捕してもらう旨を一切の感情をまじえず妻に告げた。弁護士と言うのは本当におっかないと思った。相手が取り乱そうが怒り狂おうが、一切ペースも表情も変えないで話しを続け、妻を追い詰めていく。妻は矛先を俺に向けてきた。興信所を使うなんて卑怯だ、大体、仕事を理由にしょっちゅう家を空け寂しい思いをさせられてきたんだから、自分が浮気をするのは当たり前のことだ、セックスだって下手で下手で、自分がイったらすぐ寝てしまう。三橋は違う、私の寂しさを埋めてくれた。あんたと別れて三橋と再婚するんだ、と、言わなくて良いことまで口走ってしまっていた。泣きながら醜悪な顔で俺を罵る妻の顔を見ながら、俺は何だか悲しくなった。それでも弁護士との事前の打ち合わせ通り、一切の反論もせず俺は黙っていた。ただ、妻から視線を外すようなことはしなかった。

次の瞬間、義父が立ち上がったかと思ったら、妻の横っ面を思い切りひっぱたいた。びっくりした妻を見ることもなく、床に土下座をして俺に許しを請うた。お金はすべて自分が用意するから、刑事告訴だけは勘弁して欲しい。こんなバカ娘でも、前科が付いてしまったらもうやり直しがきかなくなってしまう。許してくれと言ったって無理なのは承知している、自分が同じ立場なら絶対に許さないだろう。せめてそちらの言い値でお金を払うので、それで勘弁して欲しい、と。

義母も義父の横に座り、娘が大変申し訳ありません、と泣きながら俺に土下座をしている。そんな二人を茫然とした顔で妻は見下ろしている。義父は妻にペンと印鑑を持ってこさせ、示談書と離婚届にサインをさせた。お金は一両日中に口座に入金すると約束を交わした。俺は、今月末までにマンションの契約を解除するので、私物を引き払ったら義父から連絡してもらいたいと伝えると、長年住み慣れた部屋を、弁護士と共に後にした。

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