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【感想・エッセイ】私の救い「硝子戸の中」夏目漱石

 「硝子戸の中」は夏目漱石の晩年に書かれた随筆集です。子どもの頃の思い出や旧友とのエピソード、ある日の出来事などが静かな文体で綴られています。

この作品は私の心を救ってくれました。

前半の章に、ある女性と漱石の間で交わされたやりとりが描かれています。

 一人の女性が漱石を訪ねてきて、彼女の体験を小説にしてほしいと言います。結局何度か会ううちに作品にするのはやめて、ただ身の上話を聞いてほしいという事になるのですが、その人は恋愛にまつわるとても苦しい過去を持っていました。その内容については、女性が他言しないでほしいと言ったのを受けてか、文中では何も詳しい事には触れていませんが、『聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛を極めたものであった』と書かれています。

 そして過去の話の締めくくりに、その女性が漱石に、「もしこの話を小説にするならば、その主人公は結末に死ぬか、生きているか、どちらの設定が良いと思うか」というような事を聞きます。この時この女性が本当に尋ねてみたかったのは、彼女自身に死にたいという気持ちがあって、それをどうしたら良いのかという事だったのでしょう。

 漱石は生きている事で生じる苦痛をよく承知していて、死んだらおそらくその苦しみから解放されて楽になるであろうと考えていたようです。「硝子戸の中」の中で、死は『人間として達し得る最上至高の状態』と書いています。『死は生よりも尊い』という考えを抱きつつ、しかし祖先から脈々と受け継がれて自分に渡された生を簡単に投げ捨てる事は出来ないとも考え、そして生に執着する自分もまた認めています。

 この作品が書かれたのはすでに晩年で、それまでに胃を患い危篤状態になったこともあった漱石ですが、死に魅力を感じつつも、それでも無意識のうちに生を掴んでしまう自身の経験を照らし合わせて、生から逃げる事はできないという確信めいたものも持っていたのかもしれません。

 死んだらきっと楽になるだろう、世の中には死んだ方が救われる事もあるかもしれないと考えつつ、目の前にいる死にたいほどの悩みを抱える女性に対しては、漱石はやはり生を放棄してもよいと言う事はできませんでした。

 「死んではいけない」「生きていればきっと良い事がある」-こんな言葉ではきっと女性の苦しさを和らげることはできないと思ったのでしょう、漱石は生や死について何かを断言する代わりに、夜分に帰る女性を途中まで送る際に彼女が、「漱石に送ってもらって光栄だ」というような事を言った時にそれに答える形で、『本当に光栄と思いますか(そして光栄ですと応じる女性に)そんなら死なずに生きていらっしゃい』と言葉をかけました。

 私はこの言葉が、突き放すでもなく、変に寄り添うでもなく、今が辛くてもとにかく何となくでも過ごしていればきっと、どんな形であれ自分の生を全うできると私を諭してくれたように感じられました。漱石ほどの人であっても、結局は死んだ方が良いという結論に達する事はできなかったのだから、世界には私のような凡人には計り知れない何かがあって、それ故に生から逃れる事はできないのだとも。

 そして、もし死の後押しをするような事を言ってしまって、もしその通りに女性が死を選んでしまったら、その時には罪悪感を感じずにはいられないだろうという考えもあっただろうと私は思っています。

 そのような色々な事を包括してなお、漱石が苦しむ女性にかけた言葉には、彼女がこれからどうやって傷を癒していったら良いのか、自分は本当に正しい事を言ってあげられるのかと真剣に悩む優しさがありました。

私はこの言葉を自分に向けて言ってくれたものと受け止めました。こんなに好きになれる作家に出会えた事はとても幸いであり、それならとりあえず、とりあえずで良いから生きてみたらいいのではないかと。

 「硝子戸の中」には他にも、短冊に一筆書いてくれと勝手にお礼の品まで送りつけてしつこく手紙を寄こしてくる男性とのやりとりが軽妙に綴られていたり、江戸末期から明治にかけての新宿あたりの風景が細やかに描写されていたり、読む章によって違った趣があります。重く人生を考えるばかりでなく、漱石の人となりや、私の大好きな明治時代の生活・習俗のようなものも伺い知ることができて、大変楽しい作品でもあります。

 私の人生の苦しみは、もしかしたらずっと拭い去ることができないかもしれないけれど、もしかしたらもっと辛いことがあるかもしれないけれど、それでも時の流れに従ってただ生きていく他ないのだと、それが人生なのだろうと静かに教えてくれた本でした。

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