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斎藤環 / 「自傷的自己愛」の精神分析

最近本をかなり買っている割に,あんまり真面目に活字を追えてない気がするので(少し読んでは積読,の繰り返しです),ここはケジメとして本を読んで考えたことをしばらくnoteに書いていこうと思います.今回は,斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』(角川新書) についてです.

きっかけ

斉藤先生の本を最初に手に取ったのは『生き延びるためのラカン』で,フランス現代思想をかじり始めたときに,現代思想が精神分析の系譜を踏まえているというのが分かり,フロイトまで読み込む気にはなれないけどラカンの入門書ぐらいなら,と思ったのがきっかけです.先生の他の書籍では『オープンダイアローグ 実践システムと精神医療』なども拝読しました.

総じて

読んでよかったと思いました.随所に筆者の「やさしさ」を感じました.この本をなんとなくオススメしたい人がいるとしたら,Twitterで流れてくる様々な心理系の考察に入れ込みがちな方でしょうか.この本はそうした言説に代表される昨今のインターネットの空気から,ちょうど良い距離感を取るきっかけを与えてくれると思います.

長年,色んな方を診てきた経験からなのでしょうが,Twitterで「人々がどのように心理を考察しているか」までもが分析の対象になるというか(つまり考察の考察です),それが2000年頃からの日本人の精神性の変化を踏まえたトレンドとして相対化されてる感じがあり,若者は若者のエコーチャンバーにいることを自覚すべきなんだな,と反省しました.Twitterって一見すると冴えた考察のオンパレードに見えるんですが,単なる主観が「膨大ないいね数」という客観性にマスクされちゃってて,良くない影響もあると思うんですよね.断片的な考察ばかりでなく,緻密に組み立てられた論理をまず大事にしないといけないです.

「自己愛」という個人的な問題について,社会や時代といったマクロなトレンドを踏まえつつ,精神分析的な見地から「家族」という普遍的な構造からいえること,あるいは学校やSNSにおける承認をとりまく対人関係など,心理に関わる様々なスケールの現象が綺麗に整理されていて,勉強になりました.

「自傷的自己愛」という現象は,確かに「こじれ」とはいえるんだけれども,そこまで深刻な病気というわけではなく,「健全な自己愛もそこにはある」という感じで,「サブクリニカル」=治療が必要と断定はできないけれど,何らかのケアや治療は必要になる可能性がある,という状態なのだそうです.

インターネットを見ていて,昨今はさまざまな形で「弱さへのフォーカス」(メンタルヘルス,発達障害など)が高まっているように見えます.センシティブで少し言語化が怖い話なのですが,インターネットの「弱さ」を取り巻く言論空間には,本当に深刻な問題を抱えるひとと,実は対処できる範囲の問題なのだけれども過剰に「弱さ」へ自己を同一化させてしまったひとの問題が,ごちゃ混ぜになっているような感触があります.この本はそうした空気感についても示唆を与えてくれるような気がします.

印象に残った部分

あんまり一字一句を正確に覚えて,というのは汎化の効かない過学習といえるのと(落合陽一『忘れる読書』),文脈から切り離された著者の断片的な表現が一人歩きする危険性があるので控えたい気持ちがあるのですが,印象に残った部分を最低限に抑えて引用します.

そう,万能感はその本質からして開かれた幻想なので修正機会がありますが,無力感は徹底して閉じた幻想なので,修正がきわめて難しい.つまり自傷的自己愛は,徹底して閉じているという点で,もっとも完結した自己愛と考えることもできます.

p.74

私の個人的印象ですが,若い人はあまり「自己嫌悪」とは言いません.「自分が嫌い」という言い方をします.(…)「自己嫌悪」という言葉は部分的です.なんらかのヘマをやらかしてしまって,そんなおりに,一時的に自分が嫌になる感覚.一方,「自分が嫌い」という言葉はかなり重いです.(…)自分という存在の一部を否定するのが「自己嫌悪」,まるごと否定しつくすのが「自分が嫌い」.どうでしょうか.

p.83

「発達障害」のキャラ化
キャラが重視されることと相関するかのように,現代の日本は一種の「発達障害ブーム」と言って良い様相を呈しています.(…)一見社会適応できている人や成功しているような人たちも,実は「発達障害」を抱えていた,というナラティブは,ある種の定番として定着した感があります.(…)才能に恵まれたイメージが広がったことで,発達障害への承認は得られやすくなり,当事者もカミングアウトしやすくなるとともに,病気語りが「承認」を集める有効なコンテンツとして機能するようになっていたのです.

p.138

身体性とジェンダー・バイアス
なぜ母娘が特殊なのか,それはつまるところ,双方が「女性の身体」を共有しているから,ということになります.父と息子だって身体を共有しているじゃないか,という指摘もあり得るでしょうが,あえて断言します.精神分析的な視点から見て,極論すれば男性は身体というものを持っていません.健康な男性の身体はいわば "透明な存在" で,それゆえ彼らは,日常的に自らの身体性を意識することはほとんどありません.彼らが自分の身体性を思い出すのは,病気など特別な場合だけです.

p.158

雑談

同時並行で,ラカンといえばと思い,松本卓也著『享楽社会論: 現代ラカン派の展開』を読んでいました.この本には,「心の問題」のような一見個人的とも思える問題を,政治や制度や経済や労働といった社会構造の問題から同時にアプローチすることの重要性を主張する次のテーゼがあります.

私たちは,ラカン的な見地から次のように言わなければならない.「新型うつ」などと呼ばれ,個人の側の「怠け」や「甘え」として捉えられている「病」は,現代のグローバル資本主義のディスクールの倒錯性が生み出したものなのだ,と.問わなければならないのは個人のパーソナリティや脳の脆弱性ではなく,彼が職場と,そして広義の経済システムとのあいだに結ぶ社会的紐帯のあり方なのだ,と.

このような「うつ」が「うつ病」と呼ばれ,個人の「脳」が治療の対象とされることに何の疑いももたないような医学言説は,資本主義のディスクールが行う狡猾な「欲望の搾取」を不問にし,隠蔽してしまう.現代の「うつ」を一種の労働問題として捉えることの価値は,おそらくはそれが私たちの生きる享楽社会の問題を照らし出してくれることにある.

p.93

私は神経科学とエンジニアリングに興味があるので,自然言語的ともいえる人文的アプローチと,工学的なアプローチを頭のなかで比較することが多いです.例えば,「脳や自律神経の状態をモニタリングしてウェアラブルデバイスで生活習慣や投薬サイクルを最適化します」とかが将来的に可能になったとしても,人間が「関係性の生き物」である以上,あくまで社会というマクロで言語的な構造から,心という個人的かつ生理学的な問題が生まれるという絡み合いは,忘れてはいけないと思っています.次の言語化が秀逸で好きでした.

要は,あくまで「臨床的な判断」として使い分ける,というのが非常に大事なのだろうと思います.装備の選択肢を増やすこと自体は良いことで,ただしこれが「思想・主義的」「教義的(ドグマ)」になって,何でもかんでも「自己責任論」,あるいは反対に「他責論」になってしまうのが問題なのでしょう.

制度に起因する集団的な「病」なのであれば制度を是正すべきだし,一方で個人にしか変えることのできない変数によって(自室の環境や運動習慣など)「病」が発生しているのであれば,その変数を変える手助けを提供する,ということなのだと思います.いずれにせよ,「心の問題」を考えるときには(というか,いつでもですね)多視点的なアプローチが大事なのだと実感させられました.

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