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小説がかけなくなった


このページをひらいてくださってありがとうございます。
みゃうです。


私は小学生のころから小説をかくことが好きでしたが、

最近かけなくなりました。


きっかけは些細なこと。

私が小説家になりたいと話したところ、

ある人から「大変だよ」と言われました。

その人は別に小説家でもなんでもありません。

いつもの私なら無視したはずです。

しかし、なぜか私はその人の言葉にはっとしました。

それは私にとって大事なことが「楽に生きる」ことだと気づいたからです。

私は集団に属するのが苦手で、

フルタイムで働くこともできないと思っているので

私が生きる道は小説家しかないと思っていました。

よく考えたらおかしな話です。

集団に属さなくても、フルタイムでなくても働く方法はあるはずです。

さらに最近の私は小説をかくことを以前のように楽しめなくなっていました。

小説をかくのが好きと言うと、

国語が得意だったと思われることが多いですが、

私は国語は大の苦手でした。

私は明らかに文章をかくのが苦手な部類の人間です。

そんな人間が小説家になろうだなんて無謀に思えます。

前の作品のようにかいていて楽しいと感じることが少なく、

長編をかかなければというプレッシャーのせいで

自由にかけていませんでした。

そこで私は一旦、小説をかくのをやめました。

無理をして小説をかいて小説家になれたとしても、

その先ずっと無理をしなければならなくなると思うからです。


小説をかくのをやめてから、

新たな引っかかりが浮かび上がりました。

「私に小説をかく資格はあるのか」

正直、私は他の人より達観していて

精神年齢が高いと自負していました。

人生を分かっていると思っていました。

しかし、とあるゲームのストーリーを読んだとき、

私は何もわかっていないと感じました。

私は多くのものを失ったと思っていましたが、

実際何も失っていないことに気づきました。

そんな私が大きな絶望を抱えた人物を想像で創り出し、

人生を語ってよいのか自信がなくなりました。

人生が何かわかっていない人間が

分かったふりをして小説をかくことは許されないと思いました。

また、私はバトルファンタジーをかくのが好きですが、

戦いを知らない人間が戦いを描く資格はあるのかという思いが湧き上がりました。

バトルファンタジーは「心の在り様」が重視されますが、

実際の戦いはそんな生ぬるいものではないと思います。

どんなに強い気持ちを持っても、実力がなければ負けます。

判断を誤れば命を落とします。

気持ちで戦いを解決できるなら、

世界はとっくに平和になっているはずです。

綺麗事で平和は訪れません。

私は戦いの本当の残酷さを知りません。

そんな人間が戦いを描いてよいとは思えません。


以上の理由により私は小説がかけなくなりました。

その状態は今も続いていますが、悲しいとは思っていません。

小説がかけなくなったということは、

私は小説家になるべきではないという証です。

私の道は別のところにあるということです。

もちろん小説がかけなくなっても

文章をかくことは好きです。

短編小説ならまたかけるかもしれません。

単に小説をかくことに対する考え方が変わったにすぎません。



最後まで読んでくださってありがとうございます。
Tschüss!




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