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今後のビジネスに求められる「美意識」:『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えているのか?』

名門美術学校が、エリート幹部向けにトレーニングビジネスを展開していることをご存知ですか?

また、エリートビジネスマンの象徴といえばMBAですが、近年MBAへの出願数は減少傾向にある一方で、MFA(芸術学修士)への関心が高まっているという事実もあるようです。

ニューヨークでは、美術館で実施されているギャラリートークに朝早く参加した後に出勤するといったビジネスマンも増えてきているとか。

美術や芸術がビジネスの分野で注目されているのは、なぜでしょうか?

そして、世界のエリートたちがこぞってアートスクールに通い詰めているのはどうしてでしょうか?

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世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えているのか?〜経営における「アート」と「サイエンス」〜
[著] 山口 周
光文社新書 2017.07
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背景①:論理と理性の限界

エリートという単語を聞くと、どんな人をイメージするでしょうか。

上記でも記述したようなMBAを取得している人や経営者、企業幹部などを想像する方もいれば、バリキャリに代表される戦略コンサルタントなどをイメージする方もいるでしょう。

そのような人材が評価されるのはなぜでしょうか?それは、重要度の高い課題を解決できるだけの素養やスキルがあるからです。

それでは、そのような課題を彼らはどのようにして解決しているのでしょうか。事実に基づいた分析、つまり、長けた論理的思考力によって解決にみ導いています。それに加え、各ビジネスマンの経験値もその人のもつ資源として評価されるのだと思います。

ですが、問題解決のためのフレームワークや論理的思考力は、一定レベルの学習能力があれば、研修で鍛えることができます。書店で論理的思考力を鍛えるための「ドリル」が並べてあるのを見かけた方も多いのではないでしょうか。つまり、論理的思考力は特定の人だけが持つスキルとは言えなくなってきているということです。

また、事実ベースの分析をするのに必要なものは、大量の情報ということになりますが、入力した情報が同じであれば、出てくる解も当然同じものになります。今では情報そのものが幅広く「共有」されていますから、多くの論理的思考力を持つビジネスマンが同じ情報を入力したとて、出てくるアウトプットに差が出るはずがありません。

ここで、論理を頼りにしている人の間では、アウトプットに差がなくなるという課題が見えてきます。

そこで本書では、新たに「直感」と「感性」に頼る問題解決のアプローチを紹介しています。そして、その事実を世界のエリートたちはすでに気づき、動いている訳なんですね。

ですが、なにも直感や感性「だけ」に頼れと言っている訳ではありません。論理と理性だけが課題解決のアプローチであったビジネスの現場に直感と感性というアプローチを持ち込み、そのバランスをとることが大事だと筆者は述べています。

ちなみに、直感と感性は「非論理的である」こととイコールではありません。まったく別のアプローチであって、非論理的であることに筆者はむしろ懸念を示しています。

では、直感と感性を取り入れたとしましょう。何をもって、その良し悪しを説明できるのでしょうか。その答えは、残念ながら「何も無い」となります。これが直感と感性がビジネスの場から排除されてきた要因なのです。

ところが、「説明ができる」ということは再現性があるということ。再現性があるということは、すぐにコピーされレッドオーシャンになってしまうということでもあります。さらに、論理や理性だけで意思決定するとリーダーはその責任を負わなくて済みます。

なぜでしょうか。論理と理性で意思決定する際に、その根拠となるのは顧客の声に代表される市場調査などの「事実」ですから、上手くいかなかった場合、「市場が悪い」で責任逃れができてしまう。

しかし、現代は不確実性の高い課題に対して意思決定が求められます。経験値や大量のデータを分析しても、目の前の課題は今までの課題に比べ、より複雑で、不確実性が高くて、不安定で曖昧なのです。過去の事例は当てはまりません。決定的な判断軸にはなり得ないのです。

そこで区切りを付け、直感や感性により意思決定する。そして、その決定の実現可能性を高めるために論理と理性を生かす。そのようなアプローチを筆者は薦めています。


背景②:市場が「自己実現的消費」へシフトしている

アマゾンで何かを注文したことのある方は多いと思います。

例えば、PCスタンドを購入したくて検索したとしましょう。

検索結果として表示されるPCスタンドのすべてが同じに見えて、とりあえず「ベストセラー」と書いてある商品や最安値の商品を選ぶ、なんて経験をしたことありませんか?

ネジの形や色などに微妙な差はあれど、機能や値段は変わらない。ましてやデザインも似通っている...。迷ったあげく「なんかこっちの方がかわいいから」といった理由で、あるいは、値段やクチコミで判断する。

なんてこと、私はよくあります。

もはや、機能とデザインはコモディティ化しているということです。機能やデザインで差をつけ「続ける」ことはもはや困難になってきています。

では、消費者である私たちは何で購入を決めているのでしょうか。それは「そのモノを持っている自分がどう見られているか」で判断します。

スタバでMacbookを開きパチパチと作業している人を見ると、「ああ、そのような人ね」と思ったことはありませんか?あるいは、SNSでナチュラルな色で統一された部屋の写真が投稿された時、「ああ、そんな人なのね」と思ったことはないでしょうか?

「そんな」「そのような」が正しいかどうかは関係なく、そのように見られたらOKなのです。そして、「そのように」見られるためには何を持てばいいのか意識・無意識のうちに私たちは考え、モノを選びます。

では、モノに「そのような」印象を付与している正体はなんでしょうか。それは、そのモノやそのモノを制作している会社、あるいは経営者の持つ世界観やストーリーなのです。

機能やデザインはコピーできても、そこに込められている世界観やストーリーはコピーできません。Appleが良い例ではないでしょうか。

人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。...理想的な準拠として捉えられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の手段を目指して自己の集団を抜け出すために、人びとは自分を他社と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。
by ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』


背景③:早過ぎるシステム変化にルールが追いつかない

憲法や会社の規則、これらのルールは「絶対善」だと思いますか?

すでに制定された法に触れなければ「善」、触れたら「悪」なのでしょうか。まだ「法が触れていない領域」においては何を持って「善悪」を判断しれば良いのでしょうか。

明文化された法のみを根拠とする考え方を「実定法主義」というのだそうです。実定法主義のもとでは「悪法もまた法」という考え方なので、既存の法に触れているかどうかだけがジャッジの基準になります。

頭の良い人はこのような法のグレーゾーンをわかった上で、「違法ではない」ビジネスをやる人もいます。ですが、始まりはシロに近いグレーでも利益が立てば欲がでるもの。だんだんクロに近いグレーになっていきます。そこにブレーキをかけることができず、結局「違法の疑い」をかけられ逮捕。

実定法主義の対義語と言えるのが「自然法主義」なのですが、ハンムラビ法典以降、実定法は自然法のもとにあるという考え方が主流だったらしく、状況や環境が変われば、人や自然の本性からなる自然法に基づいて、法は書き換えられてきました。

ですが、日本という国において、正しいかどうかを判断する基準は、常に「外部」にあったため、「法に触れていないからいいんんだ」という考え方がまかり通ってしまう構造にあるといいます。

どうゆうことがというと、日本では良し悪しの判断基準が自分の中にある訳ではなく、属している会社の空気や雰囲気に合わせること、排除されないように行動することが「是」とされている「恥の文化」があるために、「法=組織のルール」が絶対善と見なされやすいということなのです。

しかし、法を定めている組織の状況は変わるもの。そして、その組織でしか通用しない法であるため、本当のところ「絶対善」ではないはずですが、異なる文化を知らない多くの日本人にとってはそれを認識することは難しいのだといいます。

でも、そう言っている間にもシステムは変化し続けます。「合法ではないけど、違法でもないから」と倫理に反することをすると、いずれ法が追いついてきます。法が追いついてきても、法に掴まらないためには、自然法、つまり、「真・善・美」に基づいた道徳的・倫理的な意思決定をしていくことが必要だというのです。

「真・善・美」とは本書でいう「美意識」と同義となります。

何が真なのか、何か善なのか、何が美しいのかを判断する基準を自分なりにもつことが、これからのリーダーに求められるということです。


内部にモノサシを持つ

「論理・法・市場」を外部的モノサシとした時に、「真・善・美」は内部的モノサシだと述べた上で、筆者は「真・善・美」に基づくモノサシを持つべきだと主張しています。

「真」は従来、論理により判断されてきました。しかし、上記でも紹介しているとおり、課題における因子の数が莫大に増え、多くの人が論理を身につけるようになった現代において、論理だけに頼っているといずれ「分析麻痺」になってしまいます。その代替案として、直感を取り入れ、論理とのバランスをとることを筆者は薦めています。

善悪の基準として普遍的に用いられてきたのは「法」です。ところが、システムの変化が早すぎる現代において、法の整備は追いついていません。競争社会において法の整備を待ってもいられない。グレーゾンで意思決定せざるを得ない状況において、リーダーは自分の内側にある規範・基準に基づいて判断するしかありません。

また、今まで「美」を判断していたのは、顧客や株主であった訳ですが、全地球的に自己実現欲求の市場となり、美の判断基準を外部に委ねることの限界がやってきました。内面にある美を基準として新たなモノを生み出すことが必要になっています。

つまり、世界のエリートたちが美意識を鍛えているのは、より高品質な意思決定を行うための、主観的な内部のモノサシを持つためだということです。


読んだ感想

エリートではない凡人の私にも、本書において学び適応できる部分がたくさんあるなと感じています。前回の「7つの習慣」に引き続き、自己な内面を磨くことの重要性について改めて痛感しました。

ビジネスの世界や、グローバル規模でみたら自分自身はエリートと呼ばれるような人では決してないですが、自分の人生を舞台だと考えた時に、主演の私は間違いなくエリートです。

事実に即した分析や経験に即した選択しかできないと、なんともつまらない人生になりそうです。

新しい何かを創り出すこともなく、すでに創られたものに巻かれていく。誰の心も動かすことなく、自分だけが外部から心を揺さぶられる。自分の中に確固とした基準がなく、みんなが渡るから赤信号を渡る。そして何の罪悪感も感じないまま盲目的に生きていく...。

そんな人生を振り返ったとき、死ぬ前の私は何と思うでしょうか。

後悔先立たずです。悔やんでも巻き戻せない時間を嘆くしかないでしょう。

悔いの無い人生にするためにも、論理と直感、理性と感性のバランスをとり、直感や感性の根っことなる「内面のモノサシ」本書でいう「美意識」を常に磨いていきたいと思います。しかも、エリートではない私は論理と理性を磨く必要もあるでしょう。バランスが大事だからです。直感と感性だけに偏ると、それもそれで後悔する選択をしてしまいそうです。

また、筆者のいうエリートがもし「システムに強かに適応し、システムに変革を起こせる立場の人」なのであれば、私を含めビジネスマンならだれにでも当てはまるのではないかと思います。

自分は今どのような状況に置かれているのか、自分に足りないものは何か、自分は今何を感じているかと自己を認識すること。自己を認識し、成長のためのスタート地点立つこと。やはり、今の自分にはこれが一番大事だと思いました。

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