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J.S.バッハ エピソード

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J.S.バッハのエピソード&イラスト
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#オルガン

バッハ エピソード3 オルガニスト バッハ誕生

バッハ エピソード3 オルガニスト バッハ誕生

バッハは、リューネブルグの聖ミカエル教会の附属学校で聖歌隊奨学生として勉強しながら、近隣の街へ頻繁に訪れ、オルガン音楽やドイツの宮廷社会で流行していたフランス風音楽など、さまざまな音楽を吸収していきます。

同時に、教会のパイプオルガンの改修工事も見学しオルガンの仕組みも理解していきました。

こうしてオルガン演奏能力はもちろんオルガン製作の知識を得たバッハは、アルンシュタットという街にある教会の

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バッハ エピソード6 バッハのラインケン詣

バッハ エピソード6 バッハのラインケン詣

バッハは聖歌隊奨学生としてリューネブルクの学校に通いながら、近隣の街ハンブルクに赴き、オルガンの巨匠として名声のあったラインケン(1623-1722)に出会います。

ラインケンの作曲に関心を持ったバッハは、1688年に出版されたトリーオ・ソナータ集「音楽の庭園(ホルトゥス・ムジクス)」の楽譜を手に入れ、写譜して作曲技法を学習し3曲をクラヴィーア用に編曲をしています。(BWV954, 965, 9

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バッハ エピソード10 憧れのブクステフーデ

バッハ エピソード10 憧れのブクステフーデ

オルガニストになって2年が経った1705年、ブクステフーデのオルガン演奏を聴くために、20歳のバッハは400㎞離れたリューベックのまちに徒歩で出かけるため
4週間の休暇をとりました。

ブクステフーデは当時60代半ばで聖マリア教会のオルガニストでしたが、オルガン・リサイタルや「音楽の夕べ」というコンサートを主催し、自分で作曲した作品を発表して名声を得ていました。

すっかりブクステフーデの演奏に心

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バッハ エピソード11 目標:ブクステフーデ

バッハ エピソード11 目標:ブクステフーデ

ブクステフーデに会いに行き、16週間も仕事を休んだバッハ。

アルンシュタットに戻ってきてからの演奏は大胆でダイナミックなものになっていました。

ブクステフーデに会いに行ったバッハ エピソード

ブクステフーデの影響が認められる作品

・《パッサカリア ハ短調》BWV582
・《プレリュードとフーガ ホ短調》BWV533

さらに礼拝の時の讃美歌伴奏も長い即興演奏や大胆な変奏や転調で会衆を驚かせ

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バッハ エピソード12 1年で辞表

バッハ エピソード12 1年で辞表

1707年、アルンシュタットでの色々な事件によって非難をあび、いづらくなったバッハは、聖ブラウジス教会のオルガニストに転職します。

前任地アルンシュタットの小さな教会から、帝国自由都市のミュールハウゼンの主要教会へと出世しました。

「ブクステフーデの教会音楽」を実現するために張り切ります。
オルガンの改造計画も手がけ、大規模な声楽曲にも取り組みます。
しかし、当時の宗教改革運動の影響で、「ブク

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バッハ エピソード17 オルガン名手 バッハ

バッハ エピソード17 オルガン名手 バッハ

ワイマール時代、公爵はバッハを信頼し、他の町や宮廷での演奏を許していました。おかげでオルガニストとしてのバッハの名声はドイツ中に響きわたります。

カッセルの宮廷で次のようなエピソードがあります。C.べラーマンという人が、
1732年にカッセルの聖マルティーン教会で行なった演奏を表したものです。

「バッハの足は翼が生えたかのように
 ペダルの上を飛び交い、
 力強い響きが雷鳴のように
 教会にこ

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バッハ エピソード18 ハレでの晩餐会

バッハ エピソード18 ハレでの晩餐会

バッハはオルガンの建造計画にアドバイスを求められたり、完成したオルガンの鑑定を依頼されたり、今でいうとオルガンコンサルタントも行っていました。バッハは生涯にわたって50台ほどのオルガンを演奏しており、その時のエピソードがあります。

ワイマールの宮廷オルガニスト時代、ハレの聖母教会のオルガン建造に対する助言を求められ、1713年当地を訪れました。その時からバッハへの待遇はびっくりするほどよく、17

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