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子を想う親と、親を想う子の物語 【カラスのジョンソン】

住んでいるところも年齢も違うけど、同じ道産子で、同じく看護師というInstagramで知り合った彼女とは、読んでいる本が示し合わせたように同じだったり、古代エジプトに魅せられていたり…とまだ一度も会ったことがないのに、ずっと前からの知り合いのような、不思議な繋がりを感じている。
その彼女が一年半ほど前に紹介していて、「これはいつか必ずや」と思っていた「カラスのジョンソン」

千々のきらめきと、葉のこすれる乾いた音の中で、カラスのジョンソンは生まれた。さらさらと流れる風。翼に当たる雨。遙かな空から見おろす星…。その日から、ある伝説が紡がれていった。
小学生の陽一は、傷ついたカラスの幼鳥を「ジョンソン」と名付け、母と暮らす団地でこっそり飼い始める。次第に元気になっていくジョンソン。だが、「飼ってはならない鳥」はやがて、人間たちの過酷な仕打ちを受けることに──。カラスと少年の伝説が、ここに紡がれた。“詩人”が謳い上げる、生の交歓。

先々週末の伊勢原への行き帰り。
この本にお供をしてもらった。
その彼女とは、タイミングが合わず残念ながら初対面は叶わなかったのだけれど。

詩のような、散文のような。
淡々と、静かに語られる、一羽のカラスの物語。

子を想う親と、親を想う子の物語。

先月末、久しぶりに母一人で住む実家に帰った。
10月から毎日欠かさず書いている手帳を忘れずに鞄に入れて。

手帳には、天気やら日記やらマイマイの様子やら晩御飯の献立やらを書き込んでいるのだけれど、それとは別に、「ジブン手帳 LIFE」という数十頁のノートに、産まれてからこれまでの私年表を思いついたときにチマチマと書き込んでいっている。

年表には家族の出来事も一緒に記載できるようになっていて、私はそこに、母きょうこが33歳の時に私を産んでからの母年表を作ってみよう、と思いついた。

母から、どこに行ったとか、どこで働いていたとか、港の傍の長屋から山の上の海の見えるこの一軒家に引越してきた、とか。

とにかく細かく細かく話を聞いていく。

話は脱線に脱線を繰り返し、聞きたい内容から離れていくこともしばしばで、その度に「この年表はいつできあがるのだろうか」とため息をつきたくなったのだけれど、もしかしたら話の中に宝物が隠されているかもしれない、という思いも捨てきれず、母の話を長い時間ずっと聞いていた。

1992年。
私が10歳の頃、母と父は離婚した。
母は43歳だった。

明日からの生活さえも見えない毎日の中で、それでも小4の私と中1の姉をなんとか食べさせなければいけない、とそれだけを強く心に誓ったという。

保険レディ、クリーニング工場の厨房、老健施設の介護職。

高校卒業から何十年もアパレル系の接客業に携わっていた母は、畑違いの環境と離婚に伴うストレスで、どの職場も長続きはしなかった。

そんな状況を知った昔一緒に働いていた友人からのご縁で、フォーマルウェア販売員の職を得た。
ただ、そこは小樽の隣町の余市という小さな街にある複合商業施設で、自宅からだと徒歩と二本のバスを乗り継いで、毎日片道1時間半ほどかけて通勤せねばならず、遅番のときは帰りが夜10時を過ぎていたと記憶している。

8時間立ちっぱなしで仕事をした後に、くたくたになって家に帰ると私達2人のご飯の準備、そして翌朝また出勤して…の毎日は、どんなに大変だっただろう。

母と同年代になって、そのキツさが身に沁みるように理解できる。

不思議と「淋しかった」という記憶はなくて、小学校が終わってからためたお小遣いを使って一人でバスに揺られ、ひょっこり余市の母の職場まで顔を出し度々驚かせていたことがとても懐かしい。

そんな母が、言葉をつまらせ話してくれたこと。
これは絶対に一生忘れない言葉だと思う。

「あんたたちを修学旅行だけには行かせてあげたくてね。毎月郵便局に一人3000円ずつ、二人で6000円積み立てしてたんだけどね。どうにかこうにかやりくりして、それを振り込むだけでも毎月やっとだったよ。」

「でもね、それが今こうやって好きなものに囲まれて、なんの心配もなく暮らせているからね。お母さん、幸せだわ。」

カラスのジョンソンを読んでる間中ずっと、そんな母の事が思い出された。

これから先の私年表も、母年表も、幸せなことをたくさん書き込めますように、書き込まなければいけない、と今度は私が強く心に誓った。

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