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【19日目】どこまでも青い空の下で(ニンゲンのトリセツ・改)

◆「自分」という『揺るぎない信念』を変える

 世界全体を巻き込むような、地球規模の壮大なストーリーになってきましたね。ですがこの『モトの話』というのは、最終的に「宇宙空間の構造と時間の構造から分かる僕たちの存在意義」という海外ハードSF小説みたいな話になりますので(上級編とエキスパート編でたっぷり書きますね)、今はその「一端」(いったん)をお話ししている形です。
 このお話を最後までしてしまうと、僕たちの【三つのパーツ】の一つである「カラダ」が物理的なものとして“存在している理由”がなんと「理解できてしまう」のですが、それはおそらくメチャクチャ難解な話でもあるんです。で、そういった壮大な話の「一端」というのが、前回の小難しい話

・「自分というものが「どこまで」なのかは、自分で決めている」

という内容なんです。
 というわけで、前回は僕たちが「アタマ」の中にある『無意識の習慣』で

  • “自分”というものの範囲

を決めているんだ、という話でした。ですが僕たちの感覚としては
「カラダまでが自分だ」
という、ある意味「ゆるぎない信念」のようなものがあるはずです。
 この一見「矛盾している」ように感じられる感覚が「存在している」のにもちゃんと“理由”があるのですが、それは結局のところ「僕たちがなぜ『個』なのか?」という、これまたものすごく難解な話になるので、申しわけないのですがこれもどうか上級編まで待ってください。その上で、今はこの「ゆるぎない信念」を

  • 「変えられる可能性」がある

というところまで押さえてください。

 それで……ですよ。そういう「可能性」があるとして、僕たちはどうやってその「信念」を「変える」のか? という話になるはずです。そういう「具体的なやり方」こそが、今の僕たちの生活に「すぐ役立つ話」ですよね。もちろん、そういう情報もご用意しています。そのための概念が

自分からの距離感

というものです。


◆自分に「どれだけ近いか」という話

 僕たちは前述の通り「自分とは『カラダ』までだ」と(無意識に)考えて暮らしています。ですがその「自分」からの

  • 距離感

というのも、これまた無意識に「はかって」いるものです。距離感という言葉をもっとカンタンにすると「自分にどれくらい『近い』か」という感覚です。

 ちょっと例え話をしましょう……あなたがアンパンを一個持っているとします。そして今はおなかいっぱいです……そんな状況。
 さて、目の前に二人の人物がいます。まずはあなたの知り合い……家族でも、友人でも、仕事の相手でもいいです。そしてその隣には、会ったこともない赤の他人。二人ともまあまあお腹が空いているみたいです。
 あなたは二人にアンパンをあげていいとします。あなたなら、どちらにあげますか?

 というとき、たいていの人はまず「知り合い」をチョイスすると思うんです。
(いや、赤の他人だ! オレは慈悲深いのだ! と思う方は、実際にアタマの中でもうちょっとくわしくシミュレーションしてみてください。どう考えても、その場で知り合いを捨て置いて赤の他人を先にチョイスすることが、あなたにとって“不利な”結末をもたらすはずです)
 これはなぜか? というと……あなたの「アタマ」が相手との

  • 距離感

を(無意識に)判断しているからです。全く知らない人と少しでも知っている人、この二者の間にはこういった『距離感』に大きな差があるはずです。
 この『距離感』、つまり「自分への『近さ』」というのは、前回から僕が書いているような

  • 自分の範囲

というものに大きく関わります。こういう『距離感』というのもまた「自分というのが『どこまで』か」という話の一歩先にある『感覚』だからです。

 一方、先ほどの例を“逆に”考えてみると、あなたは「全く知らない赤の他人」から、急に
「食え!」
とアンパンを差し出されたとして
「わーい! ありがとう!」
といきなりカブりつきますでしょうか……多分(ある程度大人なら)一度は遠慮しますよね。それは相手との距離感が「遠い」(全然『近く』ない)からで、同時にそこには「警戒心」(けいかいしん)という気持ちも働くはずです……なぜこの人が自分に? 床にでも落としたのか? それとも毒でも入ってるんじゃないの? という「猜疑心」(さいぎしん)、疑わしい気持ちです。
(余談ですが、これらの「気持ち」は相手への注目によって【好き嫌いゲージ】が『嫌い』側にゆっくり動くから出てきます)
 この「警戒心」「猜疑心」も、自分との『近さ』によってどんどん薄れていくものです。つまり赤の他人よりも会社の相手、会社の相手よりも友人、友人よりも家族のほうがより自分に『近い』と感じるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 この「自分との『距離感』」というものがどこで決められているかというと、当然「アタマ」のはずです。【12日目】に書いた『ABC理論』でいう「B:信念」の部分に「この人と私は『何回くらい』会ったことがあるのか」という情報があるからこそ、この『距離感』というのが生まれるわけです。
 この情報ももちろん『無意識の習慣』に含まれます。なぜなら僕たちは、誰かと会うたびに「この人と会うのは〇〇回目だぞ」なんていちいち考えないからです。自分の親や子供や兄弟姉妹なんか特に、毎朝起きるたびに「今朝で〇〇回目のご対面だ」とか考えたこと、ないでしょ? だから『無意識の習慣』なんです。

 ですから、相手との『距離感』というものも、僕たちのアタマにある『無意識の習慣』で自動的にはかられていることになります。この『無意識の習慣』=『当たり前』(出てきましたね、『当たり前』が)を

意識して変える

ことこそが、前回から書いているような『自分というものの範囲を自分で決め直す』ことにつながっていきます。
 【16日目】で『カラダとは自分と自分以外の【境い目】であるということを「意識して暮らす」ことが、ものすごく重要だ』と書いたのですが、実はこの「【境い目】を意識して暮らす」というのが、前回と今回書いたような『自分というものがどこまでを“含む”のかを、選び直しながら暮らす』ことを意味していたんです。そういった「新しい可能性」の話だったんですね。


◆世界が同時に【二番目】のモトあつめをやるとき

 どんな人にとっても『自分自身』というものはとても大切なものです。

(前にも書きましたが、「自分がキライだという考え」を持っている人は、その考えを「持っていることそのもの」が「自分を守ろうとしている行為」なんですよ……これは筆者の僕自身が散々経験したから、そしてそれに気づいて変わることができたから、とてもとてもよく知っています……つまりそういう人こそ本当は「自分で自分を一番愛している人」なんです。自分の「上手な愛し方」については上級編でしっかり語ります)

 この大切な自分自身に『範囲』というものがある、という話なんですが、それがつまり「自分との『近さ』」という感覚に近い、というわけです。

 そして、その『距離感』というものが……もし本当に、やり方しだいで変えられるんだとしたら。

 もし「家族」「友人」「会社の相手」「学校の先生」「苦手な人やイヤな人」「全く知らない赤の他人」「地球の裏側にいるよその国の人」……こうした「すべての人」と、「自分自身の大切さ」を扱うのと同じ気持ちで接することができるようになるんだとしたら。

 さらに、「この世界に住んでいる全員」が「やり方」しだいでそういう生き方がちゃんと『できる』ようになるんだとしたら。

 もしかしたら、このどこまでも青い空の下で暮らすすべての人が、本当に「殺し合い」「奪い合い」の世界を超えて『ひとつ』になることができるかもしれませんよね。

 筆者の僕はね……実は本気で信じています。この『モトの話』をできるだけたくさんの人が「実践」(じっせん)することで……しかも同時に実践することで、それが本当に達成できると

 ほら、この本の最初の方【3日目】【4日目】で書いた

・幸せになる唯一の方法
・【二番目のモトあつめ】

という話を思い出してください。僕たちのココロは『モトの量』に応じて機械的に「気持ち」「感情」を出す働きを持っていますので、僕たちニンゲンというのはできるだけ効率よく、たくさん「モトあつめ」をすれば、自動的に幸せを『感じる』ことができる「仕様」なんです。その前提条件のもとで、自分のココロを使ってモトの「絶対量」を増やす行為……すなわち【二番目のモトあつめ】を「できるだけたくさんの人が同時に」行えば、この世界にあるモトの量が『加速度的に増えていく』ことになります。これはつまり、世界中の全員が同時に「幸せを感じやすくなる」という環境が作られていくことを意味しています。
 だからなんです。『モトの話』の習得と実践こそが、それぞれの肉体の特徴がどうであれ、周辺の資源量やエネルギー量がどうであれ、僕たち全員が同時にお互いを「幸せにしあう」関係をつくり出し、ニンゲンの社会そのものの構造を「イイもの」に変えていくはずなのです。

 これが【ココロの材料である『モト』というものに個数=量がある】という概念の、一番重要な点です。『モトの話』というのは、できるだけたくさんの人が、できるだけたくさんの幸せを感じながら生きていくための『具体的な方法論』が一発で見つかる、誰にでも(本当に誰にでも)カンタンでかつ安価(ほぼ無料)、そして効果は絶大でかつ絶対、という全人類にとって大変重要な「心のあり方の新しい概念」なんです。

 この『モトの話』というものは僕が30年近く考えに考えて練り上げた、今までこの世界になかった全く新しい概念なのですが、この「新しい概念」こそが、現代の世界中すべての人々の「心の成長」を一気に押し上げる唯一無二の方法だと、僕は真剣に考えています。

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 なんて、僕なんぞに小難しいことを言われなくたって、人によってはちっとも「新しい概念」ではないのかもしれない、とも思っています。なぜって、たとえば先ほどの「アンパンの例」の最適解は

  • アンパンを半分に割って、先に知り合いに、次に赤の他人に分ける

なんですけど、そんなことはちょっと「心の広い人」なら、一発で思いつきますもんね。
 だからこの『モトの話』の本質というのは、この「心の広い人」を無理なくマネるための具体的な「アタマの使い方」のメソッド(方法論)じゃないかな、とも筆者は考えています。

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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)