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嫌いな季節

私は真夏生まれだ。

8月の中旬、まさに夏の盛り。どういうわけか友達に「冬生まれっぽい!いや、秋かな…春かも…とりあえず夏ではなさそう!」とか言われたことがあるくらい、自分でもあまり夏が似合わないと思うし、実際、暑さにめっぽう弱いので1番嫌いな季節。

夏。

地元が田舎なので、蝉の声と夏のはじまりはセットだった。とにかくうるさい。ミーンミーンと鳴くのを聞く度、暑さが二割増に感じるほど。それと、夜は隣の田んぼにいるカエルも大合唱していた。最近、実家にいる母に電話をかけると、電話越しにもしきりにゲコゲコ言っているのが聞こえた。なんだかほっこりした。地元にいた頃は漠然と田舎を出たいとひたすら願っていたが、地元から離れた今、まさかカエルの声にノスタルジーを感じるとは思ってもみなかった。

中学高校と、6年間自転車通学だった。

中学も高校も、通学路に必ず坂道があった。部活の朝練。睡眠不足なテスト週間。毎日、額を伝って目に染みる汗にイライラしながら、しきりにペダルを踏みこんでいた。

同じく6年間、吹奏楽をやっていた。

一般の人にとっては、「夏といえば甲子園!」かもしれないが、私にとって「夏といえばコンクール!」だった。そう、1年の集大成。しかし正直、もやもやするような結果しか残せたことがない。

中学生の時。音楽経験皆無だった私は、入学式で聞いた宇宙戦艦ヤマトの演奏(今思うと謎なチョイスだが、選曲は顧問のセンス)に魅了され、吹奏楽部に入った。毎日毎日地道な基礎練習をして、怖い先輩に怒られて泣いて、合奏中顧問に散々に言われて合奏を追い出されても、悔しさをバネにただ吹き続けていた。神経を研ぎ澄ませて音を合わせて、一つ一つの音を乗せていく作業。正直「音を楽しむ」なんてことはその頃考えたことがなかったし、今思うと「正しさ」「忠実さ」を求めた堅苦しい演奏をしていたと思う。余裕なんてなかった。そんな中3度のコンクール、全てをぶつけたつもりだった。しかし、3年間結果は振るわなかった。今考えたらそりゃそうだろ、という感じだが、自分の中では全てをだしきった感じだった。どんなに頑張っても所詮結果は着いてこないのか、とか思った。高校ではもう続けないかな、写真部とかいいなー、などとぼんやりと考えつつ、受験期に入った。

高校生の時。吹奏楽はもう続けないかな、とか思ってた自分はどこへ行ったのか。気づいたら入部届を提出していた。「オーメンズ・オブ・ラブ」という曲があるのだが、その演奏を聞いて、単純に「めちゃくちゃいいな…」となってしまった。またもや入学式の演奏で、あんなに嫌気が差した吹奏楽に出戻り。受験期全く吹奏楽に触れていなかったので、なんだかんだ寂しかったのだろうか。楽器とは、吹奏楽とは、二度とやるもんかと思っても、しばらくしたら苦しかった経験なんて忘れてまた恋しくなるものなのかもな、と思った。

高校の部活は、中学の部活とは雰囲気がまるで違った。全国大会出場経験もある学校なので、中学よりも更に体育会系なのかと思っていたのだが違った。とにかく生徒主体、顧問の先生が忙しいため幹部の生徒がほとんど取り仕切っている。「音を楽しみましょう」なんて初めて言われた。合奏中名指しで注意されたりなんてしないし、合奏を追い出されたりもしない。「合奏=殺伐としたもの、死ぬ気で音を合わせる作業」だとずっと思っていた自分にとっては、ギャップが大きすぎた。高校の部活の雰囲気に慣れるまでは、なんだか胸の中がイガイガするような、変な感じだった。

高校の部活では幹部に入った。「立候補者がいないならやってもいいかな」という軽い気持ちだった。中学時代に散々、音程感覚や音質の善し悪しの聞き分けという基礎的な部分は鍛えられたので、耳はいいほうだと思っていた。思い上がっていたのだ。コンサートマスターという、演奏面を大体取り仕切る役割についた。しかし、立候補した後で知ったのだが幹部の中でも1番重い役職だったらしい。基礎合奏やコンクール時期とアンコン(アンサンブルコンテスト)時期の分奏のスケジュール調整と指導、バンド全体と個人のチューニング、部内ソロコンテストの全ての計画、更にはハーモニーディレクターや録音機の管理など、他にも色々あり、頭がパンクしそうなほどの仕事量だった。コロナ時期も重なり、先輩方から引き継ぎもなかなか出来ず、完全に仕事内容を理解しきっていないまま私たちが最高学年の代になった。やることがたくさんあって精一杯で、自分の練習時間も取れない。顧問の先生は教務主任で忙しく、なかなか相談もできない。というか、あんまり部活に顔を出さないせいで、部のことを全然把握していない。前年度の幹部の先輩たちは厳しい面々だったが、私たちの代はそうでもなかったので、なんとなく部全体が緩んだムードになっていた。幹部である私が部活の朝練にほぼ毎日遅刻していたのも、ムードが緩んだ原因だと思う。低血圧なりにも頑張って朝起きて、時間通りに家を出ても、マスクや何かしら大事なものを忘れたり、家を出る直前で鍵はどこだろうと探していたら時間が過ぎていったり、そんなこんなで毎日間に合わなかった。それから、もう1人の同学年のコンマスの子(コンマスは学年に2人ずつ)が不登校気味になってしまったり、新入部員がほぼ全員初心者だったり、なかなか先生がコンクールの曲を決めてくれなかったり、受験期になると勉強もしたいのに1人で全ての分奏の計画を練らないといけなかったりなどと、悩みの種もどんどん増えていった。

部に何も貢献できてないばかりか、悪影響すら与えている自分が嫌になっていた。元々人に指図するのは得意じゃないし、上に立つような人間じゃない。こんな重大な仕事を、仕事がそもそも覚えられないし出来ない遅刻ばかりの私なんかが引き受けなきゃ良かった、もっと適任な人はいくらでもいる、みんなそう思ってるはず、と思ったら、止まらなくなって、頭の中がそんな考えでいっぱいになって、ぐるぐる回る。部活中に発作的に泣き出して友達を心配させたことも何度かあった。コンクール時期やアンコン時期は、毎日帰り道、1人で自転車を漕ぎながら、気づいたら涙が出ていた。今考えると、マルチタスクやスケジュール管理、手続き的記憶が苦手で不注意なミスが多いという特性を持つ私には向いてない仕事ばかりだった。そもそも私なんかが引き受けなければ良かったのだ。

結局、高校時代も結果は何も残せなかった。特に最後のコンクールは、私が負担していた仕事が大きい分、この結果は私のせいだと今でも思っているし、鬱に入ると何度も思い出して自己嫌悪に陥る。

大学生になると、もう吹奏楽はいいや、ときっぱり思えるようになった。無能な人間が、自分には到底無理な仕事を出しゃばって引き受けて、みんなに迷惑をかけた思い出なんか思いだしたくない。今私は大学2回生なので、コンクールのない夏は2度目。心療内科へ行き、2つ診断名を与えられてから、はじめての夏である。

夏休みに入ってからは、ただクーラーの効いた部屋でストラテラの副作用が収まるまで横になっている日々。副作用の吐き気や頭痛、食欲不振は2ヶ月飲み続けてもなかなか収まらない。こんなに苦しんでいるのに、効果はまだ感じない。抑うつに関しては、抑肝散で収まる日もあれば、そうでない日もある。バイト中に発作的な鬱で涙が止まらなくなり、早退させてもらった日からは、バイトに行くのも怖くなり、当欠ばかりになってしまい、シフトは大幅に減らした。親にずっと催促されていたため自動車学校にも通い始めたが、教官に注意されたこと全てにダメージを受け、パニックになり、教習中にも涙が止まらなくなってしまった。

何も出来ないし、何もしたくない。精一杯生きているつもりなのに、人に迷惑をかけてばかり。向いてないことが多いのか、自分が頑張っていないだけなのか、もう考えることも疲れた。自分に価値を見いだせない。死にたいと言うよりかは、人生を終わりにしたい。


ジリジリと焦がされるような暑さ。聞き飽きた蝉の声。思い出したくない部活の思い出。吐き気、目眩、食欲不振、頭痛。突如溢れてくる不安感と抑うつによる涙。

暑さにやられた氷はすぐに溶けて水と同化する。私もいっそ、この暑さでドロドロに溶けて、この世からいなくなりたいなあ、と思いながら、死ねずにいる。

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