ステージが欲しい、ステージに立ちたい
ビックウェーブは来なかったがうねりはあったかも
先に書いておくと、私は遠い過去を浸りながら書く気はない。だけどこれは射撃に繋がっているので筆ないし打ち込んでおくことにした。
思い返せば小学生時代、私は運動会でのみ活躍し重宝がられたが、残りの364日は冗談抜きで出番がない子供だった。だから年に一度私は運動会というステージで大手を振って歩いていた。あとは暇。本当に暇だった。運動だけはできたから、体育なんかは比較的楽しかった記憶があるけれど、それでもやっぱり暇だったから面白そうな本を片っ端から読んだり、他にも色々なことに打ち込もうとしたし、そう道筋を立てられて乗ってみたりもしたけれど、結局なかなかいい波の来ない時代を過ごしていた。波が来なければ乗ることはできない。ビックウェーブだと思ったら、私はビックウェーブ手前で待っていようで、いざ波が起きたときには後ろで冷めた目で見ている自分がいたり、あとは大海原でぽつんと小さい波にぷかぷか浮いている状態。まだ始まったばかりの人生なのに私は心底飽き飽きし、時に絶望し不安を覚え、でも諦めることはできなくて、心に希望を持ちながら、何かに熱中しようとしてはやっぱり違うと思いなおしすぐに飽きる、というか手放す、離れる。それを繰り返していたように思う。
結局このあと進学をして、自分を取り巻く状況や置かれた場所は変われど、期待するようなビックウェーブはなかなか来なかった。なので自分から探しに行くことにした。でも探しに行く話はまたいつか。
そんな暇で暇で仕方がなかった小学生の頃の記憶のなかに、鮮明に躍動感を思い起こすことのできる衝撃的とも言えるほど夢中になった楽しかったこととして、祭りの夜の出来事が二つある。それを波に例えると、うねりが近いと思う。うねりとは瞬間的に戻り流れ3秒で溺れてしまう波のことで、台風のときなんかに起こる現象。
一つは金魚すくい。金魚すくいのポイ、あれには張られている紙の強度に種類があって、おそらくその時のポイは比較的強度の強いポイだったのだと推測するが、私はそのときの金魚すくいで、全ての金魚をすくい、家に持ち帰ってきて、庭に転がっていたベビーバスで大量の金魚を数年に渡り飼育することになった。使ったお金は200円、1回100円だったので2枚のポイで200匹弱を救って何袋にも分けてもらい空気がないどころが密度が濃いのでアップアップしている金魚たちを異様な重さと共に自宅に持ち帰った。
私が金魚すくいの屋台の前を通ったとき、時間的にも祭りは終盤で、出店の人も私の大漁具合を有難がり「凄い」の誉め言葉より「いやー助かった!残ったらどうしようかと思った。全部持って帰っていいからね!」だった。他の子どもたちが数匹すくってポイに穴が開き次の出店に移動する中、私はいつまでもすくえてしまうので続く限りすくっていたら結果的に残っていた金魚は全て我が家に来ることとなった。のちに調べたら、金魚すくいにも大会があり、練習できる場所も射撃場より少ないけれど一応はあったりして、大人になってから本気で通おうかと考えたことがある。
もうひとつが射的だった。本当に偶然通りがかかった射的を興味本位でやってみた。確か1回3発か5発撃てて、10円とか50円みたいな良心的な金額で、景品は各家庭から持ち寄ったお古のぬいぐるみや鉛筆などの文房具だったと思う。射的と言ってもテキヤが本気でやっているタイプではなく、引き金を引くと先端にマジックテープのついたダーツの矢が、やっぱりマジックテープのついた的に当たって張り付く子供用のもので、私は景品をちらっと見たとき特別欲しいものがあったわけではなかったが、なぜだか的に当てるということに強烈に興味が沸き「食べるものに使った方がいいよ」という周囲の大人の言葉を無視して列に並んだ。初回で真ん真ん中の右上に当たり、あとはいい線にいくけどやっぱり真ん真ん中ではなく、大きく外れることはなかった。列に並んでいるときにほかの子供の様子を見ていたら外れている子もいたので、自分は結構やるかもしれないと瞳孔が開くんじゃないかと思うくらい神経が高ぶってしまい、結局何度も何度も列に並びなおし、持ち金は全て射的に使い、孫に甘い祖父は射的の景品がなくなるまで数回に渡りお小遣いを渡してくれたおかげで、しまいには最後の景品がなくなるまでやりつくし、結果とんでもない量の景品を持ち帰ることとなり、祖父と私は母に怒られた。その怒り方が結構本気で「こんなにとめどなくやらせたら将来金銭感覚のわからない子供になる!」と怒られた祖父がしょげていたのが申し訳なかった。だけど、そのときの楽しさを、私はときどき、ふとしたときに蘇ってきては懐かしみ、そのたび祖父に感謝をした。またあの経験ができないものかと期待して祭りに行っても、射的というのはなかなかなくて、ずっと心の奥底に思い出として残していた。
私は結構人の目が気になる子供だったと自分では思うけど、この金魚すくいと射的のときはアドレナリンが出て集中しきっていたのか、夢中という字のごとく、夢のように楽しかった。その楽しさを誰も共感してくれる人はいなかったけれど、当時のすくいは祖父が、私が好きなこと、夢中になることに対して比較的好意的な目線で応援してくれたことで私は助かっていた。私はこのとき確かに楽しかった。そして誰の目も気にしなかった。というか見えていなかったし感じていなかった。その瞬間、私は無敵だった。周囲の人は呆れて相手にしていなかったのだと思うが、そんなこともどうでもよく思えた。放っておいてくれ。もうどうにも止まらなかったのだ。
私は共有と共感を求めていたからさ
射撃はあのときのことに似ている、気がする。
そして一番の救いは、その楽しさを共感してくれる人がいること。
あの頃の私はそれ以外のことを思い出してみても内面は孤独な時間が多く、私の気持ちに共感してくれる人は少なかった。その祭りのとき、終わってみると少し虚しかった。それは共感してくれる人がいなかったからだと思う。
だけど今、クレー射撃に関しては、私は虚しさを感じることがない。改めて思うと、それは有難いことのように思えて仕方がない。幸せというのは人と人との間にあるものだと私は感じている。一人でどれだけ豊かな暮らしができても、私はそれで幸せだとは言い切れない自信がある。金で買えないものはないと言い切れるほどの金銭状況を経験したことはないが、別に食べるものに困っていないし、買いたいものは比較的買える今、ある程度までのお金は有難いと思うだろうけれど、私の器が小さいのか、何もかも買えるほどの額を私はあんまり望んでいない、少なくとも今は。それよりも自分の好きなことを誰かと共有して共感することが私にとっては大切なことで、幸せで満ち足りた気持ちになれる。単純に嬉しいし。それが今、射撃にも狩猟にもあるから、私は続けたいと思えるし、手放せないと思えるのだと思う。負けていられない、とも。多分、射撃だって、本当に一人だったらなかなか続けようと思えないかもしれない。目標にしていること、競う人、関わってくれる人の存在が私を前へ前へと引っ張ってくれる。私は強くはないので、一人では生きていけない。
私も結構な鉄砲好きで、当初は「鉄砲には興味がありません。当たればいいんです」なんて言っていたけれど、たぶんその辺の人よりは銃の話はできるだろうし、日々情報収集を無意識にしてしまっている自分がいたりする。別にレアな銃とか改造ガンとか、そういう類には興味はないけれど、知識としては聞きたいと思ってしまう。間違いなく言えるのは、ブランドもののような煌びやかなものは要らないから、その分クレー用の弾を買いたいと本気で思ってしまうってこと。「私って友達と一緒におしゃれなカフェに行くより一人でラーメンに行く方が好きなんです」という可愛い顔に似合わないことを言う女性は「お、媚びてなくて可愛いね」なんてモテるイメージがあるけれど「いやいや兎にも角にも鉄砲ですわ」と言い放ち、ついでに着ている衣類に獣の血がついている女性は、モテからはどんどん遠ざかって行っている気がする。別にモテを意識して生きていた時代は一切ないのだが、私の人生これでいいのだろうかと一瞬考えたことがないわけではない。だけどそんなとき、私は最初に書いた祭りの思い出とその楽しさを思い出すと、なんだか吹っ切れてしまいしまいには笑えてくる。どうしようもない。好きなのだから。好きなものに理由なんかない。これも本能だと思う。
アルテミスってセーラームーンの白いネコの名前以前にギリシャ神話に出てくるんだって知って、改めてセーラームーンに感動したのは私だけ?
今の猟友会及びクレー射撃も人口比率は男性が多い。特に狩猟になると、どこの地域でも女性はレアだと思う。じいさんたちもどう扱っていいのかわからなければこっちもどう取り繕っていいのか難しいときもあるが、私は山での青空トイレという行為から、予期せぬところで私の山への本気度を汲んでもらえたようで、特に困ったことはない、と思う。忘れただけかな。
そのときのことを書くと、山の中で獣道を探している最中、いちいちコンビニまで車で行くなんてめんどくさすぎて、ティッシュだけもらって山で用を足して戻ってきたときの猟師のじいさんの反応ったら、いやらしい意味でなく純粋に仲間を見つけたようで嬉しそうで、その笑顔にそのじいさんの子供時代が浮かんでくるようだった。こっちは別に狙ったわけじゃなくて、コンビニまで行くのは効率悪いというか、もう正直な話汚いけれどコンビニまでとてもじゃないけれどもたなかっただけなんだって。私も女性だからトイレはじいさんたちより近いし、そこをフォーカスしないで~と、珍しく対応に困ってへの字眉毛になってしまった。この頃は、あんまり舐められちゃいかん、女だからって別に甘えようとしていないんだぜとばかりに弱みを見せないように気を付けていたのに、いかん、いかんぞ。でも予想外の展開にちょっと戸惑った。
歴史上から考えると、ギリシャ神話の中に出てくる狩猟の女神はアルテミスと言う名の女性だったり、発掘された遺跡や文献から、女性が狩猟を行っていたと推測される民族も多数発見されている。だから今の時代のニーズは男性にあるというだけで決して女性が向いていないわけではないと私は思う。ただ不利なのはやっぱり体力面。体力というか力。山に行くと力の強い男性がやけにかっこよく見えることがある。これもたぶん本能じゃないかな。というか、私は普通の女性よりは体力や握力はあると思うが、それでもやっぱり女なので、じいさん連中は私よりは大体が力持ちである。だから山で私がじいさんをこきつかっている現場を見ても決して私を非難しないでほしい。じいさんたちもどこまでも男なのだ。というか絶対に死ぬまで男だね。特に鉄砲撃ちは。時にいい所を見せようとするその微笑ましい男心からくるステージを私はじいさんに譲っているだけだから。そして時々照れ隠しに叩いてくるじいさんがいるが、冗談抜きで痛いからやめてほしい切実に。それでも私がどれだけ鍛えてもおそらくリンゴを握りつぶす握力は手に入らないと思うし、いつも感謝してます、ありがとうじいさんたち。
仕事をしていても、家庭のなかでも、友人との関係でもそれぞれの顔があったり、時にステージがあると思うけれど、今の私のとって射撃は私の持っている一つの顔だし、射台はステージで、そこは完全に、その瞬間私のものになる。あれが私のスタイルにとても合っていると思えてならないしそれ以上に興奮する。なんか出てる。とりあえず何かが出てくる、自分の中から。変態なのかもしれないが、誰にも迷惑かけていないし、それでエクスタシーを感じているわけではないから別にいいと思う。あの瞬間、私は他に例えようのない高揚感と同時に集中力に包まれているので、他のことはどうでもよくなるというか完全に自分の中から消えてしまう。でも虚無ではない。うーん、満たされ切って何かが溢れてきちゃってる感じだから絶対虚無じゃない。それがヨガで精神統一しているときと似ているので、これは一種のハイと言うかゾーンに入っているのだろうか。だけど毎回毎回そうなっているわけではない。が、徐々にその感覚がイメージできるようになってきたし、掴めてきたし、それが強烈に楽しいと思っている自分をどこにぶつけていいかわからなかったのでここに書いてる。今の私の電話に捕まったら、興味のない人は本当に迷惑極まりないと思うので、私はひたすらパソコンに向かってここに打ち込むことで消化している。
で、お前のステージはどこなのさ。いつ立つっていうんだ
そうステージってただ立つだけなら結構誰でも立てるもので、望んでとりあえず立ってみる場合もあれば、ステージまで虎視眈々と色々とやりこんでから立つ場合もあるし、その辺りは立つステージのスケールもあるしケースバイケースだと思う。私の場合は今すぐではないけれど、なるべく早く立ちたい気持ちがあってそんなとき、私はどうしようもなく感情が溢れてくるのでこの忘備録にしためているわけだけど、うん、なんか目標があるっていうのもいいことだなって思う。これまで前回の記事と同じことを書くけれど、生活に張りが出て、メリハリのある生活ができるから。私の書くステージとは射撃の公式戦の射台に立つことだけど、別に今練習で射台に入っても普通に嬉しい。そこに立つまでのストーリーが、きっとそのステージに立ったときの気持ちや結果に響いてくると思うから、大事にすべきなのはそれまでの過程で、目標よりも日々の生活と基礎練習を大切にしようと切に思ったよね。じゃあこれ書いてないでやれよって?
安心してください、やってますよ!Stationary gun!
これ、とにかく明るい安村ならぬ槇村Ver
安村さんのポジティブさって素直に凄いと思ってる。
☞寒くなってきた部屋の中で
徐々に彼女の防寒対策の効果が体感できる気温になってきた。彼女は見た目を度外視した防寒対策を部屋中に施しているので、冷気が入りにくく比較的居心地のよい部屋で今日も僕は寝てばかりいる。一説にはネコは寝子だというけれど、その辺はノーコメント。僕は決して堕落して寝てばかりいるわけではなく、この部屋での僕の仕事をこなしているだけなのだから。僕は可愛いことが仕事なのだから、その行動はなんでもいいはずだ、そうだろう。
彼女は今日もわちゃわちゃと出たり入ったりしていたけれど、どんなときでも必ず僕に1日2回の食事を用意してくれる。最近はジビエが出ていないのが少し気になる。僕はたびたび食べさせられているが、別に好きでも嫌いでもないというのが正直なところで、僕の口には魚が一番合うみたい。ネコという生き物が魚好きだと思っているのならそれは違う。ネコは雑食で、どこの国でも「ネコの好物は何ですか」とインタビューすると、返ってくるのはその国の主食だよ。だから日本は魚で、インドではインドカレー。これ本当。NNN(にゃんにゃんネットワーク)をあんまり舐めない方がいい。NNNは世界中にネットワークを持つ組織で、この家にネコを派遣すればネコも人間も幸せになるだろうと目論見から、ありえないところへ、いきなり、なんでこのタイミングで?と驚くようなストーリーで可愛い毛皮を背負ったネコたちを人間の住処に派遣している。人の世界にも似たような公式には出ていない裏組織がいくつかあるんじゃないかな。僕がNNNから派遣されたのかどうかは表立って言えないけれど、NNNからの派遣だとしたらなかなかハードコアな場所に僕は送り込まれたわけで、魂がえぐれるくらいの九死に一生を得て彼女に巡り合い、それはある意味ドラマチックな出会いになったわけだ。いやいやいやいや。冗談きついよ。
話を戻そう☝この寒さ、今はまだなんとか耐えられても毛皮をまとっているとはいえ僕にとっては結構きつい。山の麓の冬の寒さは冗談抜きで寒いんだ。去年なんか寒すぎてお湯が出なくなり、彼女はその日風呂にも入れないし、積雪の多さに外にも出ることができなかった数日があった。その苦い思い出から、今年の冬の対策を結構真面目にしたようだけど、まだ甘いぞ!もっとやるべきだ!隙間風を完全にふさぎ、底冷えも防げ。そうだ!こたつを買えば解決する!ネコはこたつで丸くなるって歌があるんだから、彼女はこたつを買うべきだ!こたつはくさいから嫌だ?小まめに足を洗えば解決するぞ!すべては誇り高き僕のために。僕にはその価値があるのなら、僕を口説いた彼女の言葉の本気度をこたつで見せてもらおうじゃないか。