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旅のさびしさと、帰宅と、おやすみと。

旅の帰り、同行者と別れたあとはスマホのメモを開く。誰かと一緒にいるときには書いていなかった感情やできごとを、徐々に言葉にしていく。

誰かと長い旅をしたのは久しぶりだった。フライトの揺れに膝小僧をにぎってぎゅっと耐えることも、美味しいものを無言で食べ終えることもない旅行。

誰かと旅をするのは、布が思わずほつれるくらいに緩んだ安心と、寝違えるような気遣いが同居する。

成田行きのフライトが気流で強く揺れたとき、私はずっと恋人と手を絡ませながら「今日はよく揺れるね」なんてのんきな会話をしていた。ひとり旅のときには、間違いなく目をつぶって耐えるか、メモにまわりの人への感謝を書き綴るのに。

けれども安いホテルでトイレの音が筒抜けなことや、自分は空腹ではなくても来てしまう晩御飯の時間に、少しだけ自由を奪われる。自分だけだったらなにも気にしないことが、少しだけ積み重なって疲れてしまう。

それでも一緒に旅をしたい気分。今は、きっとそういう時期なのだ。

しばらくは海外のひとり開拓はできない気持ちになってしまった。ゴールデンウィークに9泊10日で3カ国を周り、気が張り詰めてしまったのが大きな理由。慎重な性格の私が、海外で女ひとりでできることは限られる。誰かと一緒の方が楽しい気がする。そう思ったのなら、そうするべき時なのだとひとり旅を休んでいる。

今回、韓国から帰国して気づいたことがある。

最近、旅の帰りに土地を離れたくない! と思うことが昔より少なくなった。日常に戻れる安堵のほうが大きいのだ。

もちろん旅は楽しい。日常の仕事に戻るのは憂鬱だ。でも、少し散らかって自分の匂いで満ちた空間に帰ると、芯からスイッチを切って休むことができる。自分の居場所に帰りたいと、いつもどこかで思う私がいる。

だからひとり旅の後は、奇妙な気持ちになる。旅が楽しかったことと、体が東京へ運ばれていくことが違和感なく共存できるのだ。

自分がまたすぐにどこかに旅に出ることを知っているんだと思う。安心しなよ、次の冒険もすぐそこだよ、とわかっているのだ。

誰かとの旅のあとは、誰かの声や気配への喪失感が生まれる。場所よりも、そちらのほうが寂しいかもしれない。さっきまで隣にいた誰かの温度を、バイバイのあとからはもう感じることができない。

だから私は、自分の中で対話をする。メモを開いて、不在を感じないほどに思考が言葉であふれるのを期待する。

家に帰り、よく知った香りのシャンプーに包まれ、そして布団に入って電気を消したとき、ひとりだとわかる。本当に旅が終わってしまったのだと、強く実感することになる。

そうやって旅は終わるのだ。同時に、また次の旅へと私は進みはじめる。懲りもせず、未知や孤独を再発見しにいく。

旅をするのも、誰かと一緒にいるのも、結局は自分の足でたたなくてはいけないことを実感するためなのかもしれない。

寂しさを感じられる自分を、いつものふとんでくるんであげる。

おやすみなさい。誰かの不在すら夜に溶けて、次の瞬間にはスイッチが切れている。

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