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28.Dec.2019 海外の人々は本当に他者を気にしていないのだろうか

しくじった。記事がまとまらなかったので二日遅れでポスト。

秒で年を越してしまいそうな勢いで時間が過ぎていく。今年もメルボルンで年越しすることになってしまったが、年越しの瞬間は今年は家で静かに迎えたい。わざわざ年越しのタイミングまで起きているつもりもない。昨年は友達に誘われてメルボルンの中心部で花火を観たが、その後の帰り道はもう身動きが取れないほど混み合っていてひどいものだった。もう懲り懲りだ。

今日はこの頃脂っこいものを食べ過ぎた反動か胃腸の調子がよろしくなかったので久しぶりにヨガをやった。少し前までは毎日やっていたのだがサボってしまうとポーズが安定しない。反省。食習慣も気を付けねばならぬ。


他者を気にしないということ 

留学していると、周囲の日本人が口を揃えて言う傾向にある言葉「こっちの人って周りを気にしないよね」これに幾分の違和感を感じたので少し考えてみる。

そもそもその言葉の真意はなんだろうか。ライフスタイルとしての他者を気にしない力なのだろうか。あるいは日常生活における振る舞いという点での話だろうか。後者だとすればそれは単に気が気かないという言い方もできる。何を以て『他者を気にしない』のかについて誰かと深く語り合う機会がなかったので前提は曖昧になっている。

ただ、ライフスタイルにせよ日常的な行動規範にせよ『他者を気にしない』様に感じられるのは我々が日本人だからである。日本の社会で育ってきたから海外でその差異に気がつくことができる。

たまにSNS上でこの『他者を気にしない』姿勢を取り挙げては「日本では同調圧力が〜」と海外のケースと日本を比較して揶揄する人がいる。

でも例えばこの場合オーストラリアの人々(一時滞在の外国人含む)がライフスタイルや日常の行動規範において他者を気にしていない(様に見える)のは彼らにとっては自然なことでありそれは単にオーストラリア社会を生きてきた、そして生きていく中での最適解なのだと思う。

海外生活をしている人による「こっちの人って〜」構文には少しばかり海外への憧れによるポジティブな偏見が含まれているように思えることがある。

実際のところ冷静に見てみるとライフスタイルの自由度だとかそういったことに関して言えば、確かにギャップイヤーなるものがあったり働いてから大学に通い始める人もいて日本よりもオプションが多様だと思う。ただしその生き方はオーストラリアだから実現可能なのである。

また行動規範について見てみると、イヤホンを使わずにバス/電車の上で音楽を爆音で鳴らす輩がいたり、いい年した大人がバスの中でイヤホンを音漏れさせて一人でエアドラムをしてノリノリになっていたり、永遠に公共交通機関の中で大きな声で電話して誰かと喋っている(しかも周りに人がいるのも気にせず身振り手振りを使う)人がいる。これが日常の行動規範における『他者を気にしないこと』で合っているだろうか? *少し悪いケースばかり取り上げすぎたかもしれない。

こういうことは少なくともオーストラリアでも良くは思われていないが、しかし強く非難されることでもない。らしい。これを身につけて日本に帰った暁には日本社会不適合者の称号が付与される。

行動規範はその人が属する社会によるものであって、それぞれの社会においてはそれなりに最適解なのである。多様な民族がごちゃ混ぜになった多文化社会で育ってきたから「他者なんて違って当たり前」というセンスが身につくのだと思う。先進国、発展途上国問わず外国人としてやってくる人間で溢れかえっていて上記のような無法者がいてももはや手に負えないということなのかもしれない。

それから、少々辛口なように受け取られると怖いのだけど、
海外生活をそれなりに経験した人がブログなどで「結局自分が納得のする生き方をすれば良い。」ということを海外の人々から教わりました、というテイストの話をする人がいる。

しかしそういうことは日本でも気がつくことができるし、海外(という大きな主語)の人々全てが人生を謳歌しているわけではない。それは幾らか島国ジャパンの人々の西洋崇拝というかポジティビティバイアスに依るところが大きいように思える。


勢いで書いたので議論にバイアスが含まれている可能性があるので後で編集するかもしれない。(と言い訳しておく)



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