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Yu Amin

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記事一覧

過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅶ  Yu Amin

過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅶ  Yu Amin

Ⅶ. 未来

 幻の過去の感覚、デジャメヴュは、ときに記憶の経年変化の予期せぬ結果であったり(イシグロの幻の日本像のように)、ときに集合的な記憶の意図的創出の結果であったり(「無意識」のような精神分析的操作概念や「社会契約」のような法的操作概念のように)するのであった。この感覚に導かれて新たな概念が誕生したり、この感覚に襲われていることに気づき心が変貌を遂げたり、あるいはこの感覚を創り上げ定着させ

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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅵ  Yu Amin

過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅵ  Yu Amin

Ⅵ. 虚数

幻の過去の感覚は歴史的想像力によってでっち上げられてしまう。しかし、歴史的想像力が、その抑圧的な作用に対抗する手段となることもまたあるのではないか。抑圧する多数派の押しつけてくる「正史」というデジャメヴュに抵抗しそれを転覆させるための、被抑圧者の闘争としての歴史と過去の「創造」。この局面にあって幻の過去の感覚は、無意識の「発見=発明」と同様に、リアルなものとして新たに創造されねばなら

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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅴ  Yu Amin

過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅴ  Yu Amin

Ⅴ. 古き良き時代

 奇想の披瀝に倦むことを知らぬボルヘスにはまた『幻獣辞典』(El Libros de los seres imaginarios,1967[マルガリータ・ゲレロとの共著。柳瀬尚紀訳、河出文庫、2015年]という好著がある。ケンタウロスやトロールのような神話と伝説の主人公から、カフカの架空の動物(オドラデク)に至るまで色とりどりの未確認生命体を採録したこのカタログの中には、幻獣

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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅳ  Yu Amin

過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅳ  Yu Amin

Ⅳ. 臍

 幻の過去の感覚についての奇想は、円環する輪廻という宗教的口実を奇貨として合理化されていた。一方で、始まりと終わりに区切られた直線的な時間を生きるキリスト教世界にあってこの奇想は、時間の始まりが惹起するある不合理を説明する宗教的(かつ科学的な)口実としてひねり出されたこともあった。ボルヘスは、エッセイ集『続審問』(Otras inquisiciones,1937-52[中村健二訳、岩波

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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅲ  Yu Amin

過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅲ  Yu Amin

ⅲ. 髑髏

 デジャメヴュの感覚、それは言語とイメージに浸りきったわれわれの日々の営みが、その幼年期の長く伸展された延長でしかないということをよく証し立てている。失われた幼年期のリアルを回復=創出するための、言葉と物のマリアージュ。詩的想像力はしばしば、こうした営みそのものについて反省的に語ることがある。古典落語の演目に「開帳の雪隠」というのがある。ある寺院が秘蔵の仏像を他の寺院に貸し出して一般

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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅱ  Yu Amin

過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅱ  Yu Amin

前回「過去の感覚、あるいはデジャメヴュについてⅠ」はこちら

II. 火鉢?灰皿?

 幻の過去の感覚は、わたしや弟がそうであったように、そのノスタルジーが逆説的なものであることが、つまり初めからリアリティのある幻であることがある程度自覚されて体験されることもあれば、そうした自覚なく何らかの混同や誤解のために、記憶の中で文字どおりの現実として体験されつづけているケースもある。初期のカズオ・イシグロ

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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅰ       Yu Amin

過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅰ       Yu Amin

プラトン的な想起[アナムネーシス]が、過去の存在を捉えるのだと主張しているのは、本当に確かなことだ。ただし、この過去とは、記憶にないほど古いもの、あるいは記憶されるべきものなのであるが、また同時に[…]本質的な忘却に襲われたものでもある
——ジル・ドゥルーズ『差異と反復』



 1998年生まれの弟はしばしば、90年代後半のドラマやアニメ映画、さらにはCMなどに愛着を感じると訴えてくる。今日、

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Quodlibet # 2 「聖餐」をめぐって ( 2 )―哲学者たちの聖餐 上 Yu Amin

 前回は前座の話が長くて切り上げてしまったけれど、今回は本題について書こうかなと思う。聖餐の最中に起こっているとされている「実体変化」の教義と、それをいろいろな事情で説明しようとした哲学者たちのお話である。この一見してニッチなテーマは、特に17世紀という時代とあいまって、「哲学とは何か」というべらぼうな問いにちょっとしたヒントを与えてくれるのではないかと最近僕は思っているのだ。
 さて、キリスト教

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Quodlibet #1 「聖餐」をめぐって(1)―『さよなら子供たち』の聖餐  Yu Amin

Quodlibet #1 「聖餐」をめぐって(1)―『さよなら子供たち』の聖餐  Yu Amin

 このコーナー(Quodlibet:好き勝手におしゃべりする)は、映画の話を無理やり枕にして、映画以外のテーマについて好き勝手に思ったことを書くコーナーです。たまに映画のことも書きます。

 ルイ・マルの『さよなら子供たち』(1987年)は、ナチ占領中のフランスで、ユダヤ人の少年を匿うカトリックの寄宿学校を舞台にした映画だ。主人公のユダヤ人少年ボネは、身分を隠しながらも友人を得て次第に周囲に溶け込

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終末論的思考の現在(第二回)―私は私の子供である―  Yu Amin

前回の連載でわれわれは、エマニュエル・レヴィナスの名を通して終末論的思考のある形態を知ることになると予告したのであった。今回集中的に扱うのは、すっかり人口に膾炙した「他者の思想」のさらに先に待ち受ける次元である。レヴィナスはこのメシア的時間の境地をまさに、「私が私の子供である」と言明しているのだ。
さて、手短に本稿の要旨をまとめてみよう。
その主著『全体性と無限』は、他者の優位を基調とする倫理学を

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終末論的思考の現在(第一回)  Yu Amin

時間は永遠のひとつのイメージである。だが、同時に永遠の代用品(Ersatz)でもある。
シモーヌ・ヴェイユ
1.終末論の射程

平生、千年も先のことを考える人間など果たしているものだろうか。個人や社会、国家の将来を案じても、われわれの貧困な想像力が辛うじて及びうるのといっても、せいぜい百年が関の山であろう。千年という―ましてそれ以上の単位の年月がその輪郭をぬっとあらわし、その質感をこれでもかと感

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