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EdvPathを使って分析してみよう!【宮崎駿先生編】


みなさん、こんにちは。Edv Futureの武川と申します。

普段はEdv Futureの取締役として、弊社で運営しているEdv Path、Edv Magazineの開発や教育業者様向けにDXの支援などを行なっております。

さて、今回なのですが弊社で運営しているEdvPathというサービスがあります。EdvPathとは「生徒一人ひとりの可能性を広げる」をコンセプトに、皆さんが持っている個性・個人の特性による見えない能力(非認知能力)を数値化し、弊社独自のカリキュラムを受講することにより、伸ばしていくことができるサービスです。

この非認知能力は過去の経験したことにより、変化すると言われておりますが、現在活躍中の方や歴史上の人物は一旦どんな数値になるんだろう?という素朴な疑問から、実際に受けてもらった訳ではないですが、歴史などを振り返りながら数値化していこうという分析企画です!

少しでも面白いなと思ってくれた方はフォローとスキをよろしくお願いいたします。

では、早速第一回目ですが、あのジブリで有名な宮崎駿先生を分析しようと思います!
ただ、宮崎駿先生はエピソードが多いので、2回に分けて分析していきます。楽しみにしておいてください。今回は「風の谷ナウシカ」が公開されるまでを分析していきたいと思います!

分析に当たっての注意点

1. 今回の分析はあくまでも客観的に歴史を振り返りながらの数値化なので絶対に正しい訳ではございません

2. 数値は5点満点とし、より大きな出来事である場合は0.5、それ以外は0.1ほどの増減する

3. 具体的な非認知能力は下記とする。

■ 自己理解:自分の性格や感情、思考について、自分なりに強み/弱みを考え、言語化する
■ 社会/他者理解:社会や組織の一員として自覚し、他者や社会の多様性を受容 
■ 責任ある意思決定:自分の責任において、自分や社会の成長に繋がり、自分なりの正解と言える目標を定める
■ セルフマネジメント:明確な目標があり、その目的を達成するための手順を自律的に計画し、実行する
■ 対人関係スキル:自身の考えを発信し周りを巻き込もうとする
■ 度胸:目的を達成するために、恐怖に臆せず立ち向かおうとする
■ 復元力:何度逆境に立たされても目的達成のため立ち上がろうとする
■ 自発性:目標の達成に向けて、自らの意思により前進しようとする
■ 執念:目的を達成することに何が何でもこだわろうとする

 分析開始 - 数値化、ヒストリーライン

では早速、宮崎駿先生の数値と歴史をヒストリーラインを使って紹介していきたいと思います。
ヒストリーラインとは自分のこれまでの人生を幸福度という尺度で1本の曲線で表現したものです。よくライフラインチャートと言われていることが多いです。表の横軸は時間軸、縦軸は自分が感じている幸福度を表しています。ヒストリーラインを作成することで、自分の人生でどのような基準で選択してきたか=自分の価値観を知ることができるようになりますので皆さんも是非作ってみてください!

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■宮崎駿先生 非認知能力数値

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■ ヒストリーライン

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詳しい分析

さて、数値化とヒストリーラインができましたので、これからより詳しい分析をしていき、それぞれの出来事でどう数値が上がっているのかをみていきたいと思います。

■ 1940年:東京都に生まれる
数千人の従業員を擁した一族が経営する宮崎航空興学の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、東京市で生まれた。幼児期に宇都宮に疎開、小学校3年生まで暮らしていた
■ 1950年:杉並区に移住
幼少時は身体が弱かったので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手く、尚且つ熱心な読書家で手塚治虫などを読み漁り、漫画家になる事を夢見る(自己理解 +0.1)

ここで一番の注目ポイントは、最初からアニメーターを目指してはいなかったという点ですね。ずっとアニメーターを目指していたと思っていたので、驚きでした!また、この段階で自分は絵が得意という理由で将来進むべき道を決めているので、自分のことをちゃんと理解した上でキャリアを決めてますね。自分の好きな事を仕事にして、成功することはとても難しいですが、やはり自己肯定感を高めるには好きなことや得意な事を仕事にする事をおすすめします!

■ 1958年頃
高校3年生の大学受験期の真っ最中には、鬱屈(うっくつ)とした日々を過ごしていたそうですが・・・
そんなある日、東映動画「白蛇伝」を観ると、恋する青年と結ばれるため、生死を顧みず行動するヒロイン、白蛇の精・白娘(パイニャン)に恋をし、いきいきと行動するヒロインの姿に我を忘れて涙したそうで、
ああ、これが作りたかったんだ。オレは純粋にオモシロイものを作りたいんだ。と、気付き、同時に、アニメーションにも興味を持つようになったのだそうです。(意思決定 +0.1、自己理解 +0.1)

高校3年生の時期で自分が作りたいものを認識し、意思決定しているのが見受けられます。白蛇伝は現代アニメの原点とも言われており、今後の宮崎アニメに影響を与えていますので、興味がある方は是非ご覧ください!

■ 1959年頃
親からは「絵で飯は食えない」と反対をされ、学習院大学へ進学(意思決定 -0.1)
学習院大学に進学し、児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する(意思決定 +0.5)

大学に入ってからも漫画を描き続けて漫画家を目指していた宮崎監督ですが、ここで今後の人生を決める重大な意思決定をしていることがみられます。
漫画家を断念した理由としては、原稿を持ち込んだ出版各社で不採用を宣告されたことで、漫画家として生計を立てる自信がなくなっていたこともあるが、基本的には以下のような決意に基づいていています。
「劇画の世界と、東映の長篇アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんですね。」
「劇画はこどものためのものじゃないと思ったから、そうじゃない(こどもたちのためのものとしての)世界として、アニメーションにすごく魅力があったんです。」
(「THIS IS ANIMATION 1」小学館/1982年)

人生において、様々な意思決定をするべき事があるかと思いますが、今まで自分が好きでやってきた事を今後の人生や自分に向いている事を理解した上で、考える事が出来るのは成功している人としてやっぱり違うなぁ〜と感心してしまいました。

■ 1960年頃
安保闘争(1959~1960)の名残がキャンパスにも残っていたことから、それまで、政治活動にそれほど関心がなかった宮崎さんも、次第にその空気に影響されるようになりました。実家が、戦争中、軍用飛行機を作って大儲けしていたことを、強く恥じ、両親に対しても批判的なことを言うようになったそうで、お母さんと政治的な問題を巡って議論することもあったとのこと。
そして、その際、お母さんがどうしても宮崎さんの主張を受け入れようとしないと、宮崎さんは、歯がゆさと悔しさのあまり、涙を流したこともあったのだそうです。(社会理解 +0.1)

社会理解に関しては、やはり自分が置かれている立場や家庭環境などが非常に影響する事が分かります。宮崎監督はこのような体験から反戦という思想を持っています。しかし、面白いことに軍事マニアであることも有名で、月刊モデルグラフィックスにて連載されていた宮崎駿の雑想ノートでは監督のマニアっぷりを見る事が出来るので興味がある方は購入して読んでみてください!非常に面白いです!

■ 1964年
当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。(意思決定 +0.5)

このエピソードを見るに、世界的に成功している監督でもやはり元々の夢に対して未練を立ちきれず、今、自分がしている仕事に集中できなくなるのは大いにあるんだとちょっと安心をしてしまいました!笑 
しかし、ここでもアニメーションに興味を持った時と同じように、アニメーションによって意思決定をしている事が見られます。「雪の女王」は宮崎監督だけではなく東映動画『太陽の王子 ホルスの大冒険』など草創期の日本アニメーション界に大きな影響を残した作品です。とりわけ、ゲルダの少女像は東映動画労働組合主催の上映会で見た宮崎駿にショックを与えたとされております。

■ 1965年〜1968年
高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子 ホルスの大冒険』を作り上げた。それまでの東映動画のアニメが1年に1本と考えると3年かけて制作は異常。
(度胸 + 0.5)

今では4年や5年かけてアニメーションを作る事が当たり前ですが、この頃は予算面などもあり、1年で作る事が当たり前であったと考えると3年かけるのは度胸ありすぎだろう!失敗したらどうするだって、思っちゃいますよね。

■ 1971年
高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ』を制作するためにAプロダクションに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。

■ 1971年ごろ
低視聴率で打ち切り寸前だったアニメ版「ルパン三世」を担当。低年齢層向け、キャラクターを変更し、視聴率も持ち直したが、最終的には打ち切り。しかし、数年後の再放送により、大ヒット。第2シリーズが作られるまでになる。(意思決定 +0.1、度胸 +0.25)

この頃のルパン三世は漫画のテイストを受け継いで、非常にハードボイルドな内容になっておりました。しかし、アニメはやはり子供が見る事を考えるとハードボイルドは受け入れられず、低迷しておりました。
宮崎監督の凄いところは、アニメーションというをちゃんと分かっており、テイストを変えてしまうところです。漫画ファンからの反発や変更して失敗してしまった事を考えると中々出来る決断ではないですよね。。。僕だったら怖くて夜も眠れません。

■ 1974年
『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定、画面構成(レイアウト)を担当。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。(GRIT - 復元力 +0.5)

■ 1978年
未来少年コナン。毎週放送のスケジュールの中、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)、設定、キャラクターデザイン、メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本、絵コンテ、レイアウト、原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした。(執念 +0.5、度胸 +0.1、セルフマネジメント +0.5)

宮崎ファンでなければ知らない情報かも知れませんが実は宮崎監督はハイジも制作しているのです! 長靴のピッピにて挫折を味わった監督の初めての成功と言ってもいい作品で、自分が選んだ道を諦めずに進み続ける事の大切さを教えてくれる作品です。
また、僕の大好きな作品でもある「未来少年コナン」では、ほとんどの作業を一人で担当。週一放送と考えるとやり切り力とスケジュール管理(セルフマネジメント)どうなってだ!って感じます笑
しかし、裏を返すのであれば今後のエピソードでも出てきますが、人に任す事ができない、任せるのが苦手と捉えることもできますよね。

■ 1979年
カリオストロの城。4ヶ月で制作という過酷なスケジュールの中、作り上げる。しかし、興行的には失敗。しばらく映画に携われない時代が来る。(執念 +0.5、セルフマネジメント +0.5、自発性 +0.1)
制作期間が短く、妥協を多かった。妥協をしたことにより精神的なダメージがあった(復元力 -0.1)

アニメ史上最高の冒険活劇と言われているカリオストロの城ですが、あのクオリティの作品をたった4ヶ月で制作したというエピソードだけでも宮崎監督の執念とセルフマネジメントが凄いところが伺えますよね。
また、このカリオストロには非常に興味深いエピソードがあります。カリオストロの城は当初、別の監督に依頼をされておりました。しかし、その監督が気乗りせず、宮崎監督に依頼したそうです。この依頼を受けた宮崎監督は当時、「赤毛のアン」のレイアウトや場面設定を担当していたにも関わらず、何も言わずに退職し、制作に取り掛かったというエピソードがあります。しかも優秀なアニメーターを毎日家に行くなどして引き抜きを行っていたそうです。
このエピソードからも他者理解が欠如している事が分かりますねw(他者理解 -0.1、対人関係 +0.1)
ちなみに、赤毛のアンは高畑監督が担当しており、非常に激怒したそうです。まぁ〜当たり前ですよね。やっぱり天才はやる事が豪快で好きですw

■ 1980年ごろ
この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。(自発性 +0.1)

これは有名な話ではありますが、原型となるオリジナル企画を出してはダメで出してはダメでをこの頃の宮崎監督は繰り返しておりました。そのことから自発性が伺えますが、僕ならもう諦めちゃうなぁ〜って思っちゃうので、諦めないことは大切だなとも分かるエピソードの一つです。

■ 1982年
ナウシカをアニメージュで連載開始

■ 1984年
ナウシカ公開。ヒット
・宮崎監督が自身で付けた映画の採点は65点(自己理解 +0.1)

ご存知ではない人も多いかも知れませんが、実はあのナウシカは初め漫画として連載されていました。
宮崎監督の才能に惚れ込んだスタジオジブリのプロデューサーで宮崎監督の右腕でもある鈴木さんが徳間書店の企画会議に持ち込みをしましたが、「原作のないものは、無理」という理由で却下されてしまい、『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫さんは、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まりました。

その後、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を計画しておりましたが、企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形さんの尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し、弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開されました。

ナウシカは大ヒットはいかないまでもアニメーション作家としての宮崎駿の知名度を引き上げる作品となりました。しかし、インタビューでも答えていますが、ナウシカに対しては監督自身は納得がいっておらず、続編を作りたい!とも語っているので、最後の作品はナウシカになるのでは?と僕はちょっと期待しております。

非認知能力に興味を持ってくださった方へ

さて、今回はナウシカ公開までを振り返ってきましたが、次回はいよいよスタジオジブリ設立〜のヒストリーを振り返りながら、どの場面で非認知能力が向上しているかを分析していこうと思います。
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