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「種まき」と「待つ」を楽しむ

「自分の中で、ここ数年の間に変わったことって何だろう?」と、最近よく、考える。人は常に変化し続ける存在だと信じていて、その変化を眺めるのが趣味だが、それは他者に限らず、自分に関しても同じこと。私は、自分の変化を、楽しんでいる。たくさんある変化の中でも、「時間の捉え方」が変わったことは、自分にとっては意味のある変化だったと思う。簡単に言うと、「待つ」ことを、楽しむことができるようになった。それについて、書いてみる。

「伝える」ということ

「伝える」とか「表現する」ことは、何気に、昔からの自分のテーマである。幼少期の頃の自分は、内弁慶タイプで、家ではよく喋るし明るいけれど、学校など家の外では、基本的におとなしかった。感情を表現するときに、いつも躊躇があったと思う。でも、なぜだか、伝えたい想いはいつもあったのだ。いつからそう感じ始めたのか、あまり覚えていない。けれど、覚えているのは、17歳のときに、大好きだった祖母が亡くなる直前に、私を単独で病室に呼び、残り少ない力を振り絞って「愛梨は、ずっと、宝物だからね」と言ってくれたこと。あの瞬間の、全身に愛とパワーが巡る感覚を、今でも忘れられない。一緒に居ること、そして全身全霊で想いを伝えるということのパワーは、すごいのです。同じくらいのタイミングで、宇多田ヒカルの『嘘みたいな I LOVE YOU』の歌詞にある「言葉に全部は託せなくても声に出せば少しは必ず伝わるはず」というフレーズにであったりということもあり、「伝える」は、私のライフテーマになっていった。

今伝えた ≠ 今伝わった に気付く

昔の自分は、生まれた感情は、今すぐに伝えたい。そして、伝えたら、今ちゃんと伝わってほしい。と、思っていた。というか、「今伝えたんだから、今伝わるだろ」、くらいに思っていた。(笑)

今は、いつか、届けばいい。と、思う。(届かなくても、良いと思う)

最近、自分が何者なのかを知りたくて、よく、自分の過去の旅をする。そのときに、誰かにもらった言葉を想い出し、やっと意味が分かったりする。そのときは何気なく受け取っていたけど、何年も経ってから、受け取る側が、然るべきタイミングで、それに自覚的になったときに、突然意味を持ち始める。言葉に限らず、愛を持って誰かが私にしてくれたことも。そして、やっと気づいた。愛を送ってから届くまでに、時間がかかってもいいんだ、と。

子供と関わることは、種まき

そんな気付きがあってからは、他者とのコミュニケーションが、だいぶおおらかになったような気がする。今分かち合えなくても、愛があれば、いつか分かち合える。そんな風に、時間を、相手を、そして自分を、信頼できるようになった。

この変化は、行動面にも影響が出ている。最近、子供とよく関わるようにしている。今日もこれから3歳児の少年を保育園に迎えに行き我が家で一緒にご飯を食べることになっているが、こういうことが日常になりつつある。昔の自分は、子供は、眺めるのは好きだったけれど、関わるのはあまり得意ではなかった。伝えても伝わらないことを前提にしてしまっていたから何を話せばいいかわからなかったり、言語以外のコミュニケーション方法を知らなかったり、そんなことが理由で。

今は、愛をもって、ただ一緒にいて、観察して、聴いて、たまに気持ちを伝えたりするだけでも、十分意味のあるコミュニケーションだって思える。(こちらから伝えるのは、嬉しかったよ~など自分の気持ちと、その子の良いところ程度にしてみている。)昔の自分を思い出しても、この接し方をしてくれた人に感謝しているし、大人になった今でも、これをしてくれる人の存在を、とてもありがたく思う。

子供たちとの関わりは、種まき だな、と思う。
今こうして愛をもって一緒に過ごしてコミュニケーションをとっていることを、彼らは忘れてしまうかもしれない。何か意味を持つかもしれないし、持たないかもしれない。どうなっていってもいいけれど、この種まきの行く末は、気になる。ワクワク、見守っていくのが、とっても楽しみ。

密かにめちゃめちゃ楽しんでいたけど、楽しすぎて、留めておくのがもったいなくて、もっといろんな人にもこの楽しみを感じてもらいたいので、書いてみた次第、ふふふ。

子育てに協力させてもらえてること、本当に感謝。
本当に、オススメ!

P.S.

ちなみに、自分と関係性の近い人なら知っているとは思いますが、「伝える」がライフテーマのくせに、「伝える」が圧倒的にへたくそなので、それについてはまた書いてみたいと思います。(涙)今は、1日1回は誰かに感謝の気持ちを伝える練習中…

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