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努力している人は迷う。

幸せな部分しか見えないのだろ?「みっつさんは愛されていていいですね」と言われた。嫉妬にも似た気持ちでもあったのだろうか。ビル・ゲイツとかイーロン・マスクとかジェフ・ベゾスとかに嫉妬するならわかるが俺だぞ。言いたいことはわかる。傍から見たらリア充に見える瞬間があるのかもしれない。でも、実態は全然違う。学歴なし、職歴なし、現在無職、そのまま三十路突入、将来のプランもなければもちろん金もない。彼女はいるし仲の良い家族はいるし多少友達もいるが、それでも果たして嫉妬の対象になり得るのだろうか。幸せそうに見られる。嫉妬されないはずの人間なのに嫉妬されることもある。

1.で、結局何が言いたいの?

「で、結局何が言いたいの?」。そう思うことは多い。何か気持ちをものすごく遠回しで伝えられているような気分になる。本当は言いたいことがあるのに、ベールにベールを重ねてからぼんやりと伝えられているようだ。これは自分に対しても思うときがあるが、致命的に具体的じゃない。具体的に伝えること。これが簡単なようでいて結構難しい。

2.好奇な目で見られることによる疎外感

生い立ちだけが広まってしまっているということもあり、やたらと好奇な目で見られているなという瞬間がある。俺は超凡人だ。1000人Twitterのフォロワーがいるだけで、一切有名でもなんでもない。PVなんてゼロに等しい。それでもやっているだけだ。報酬があるからやっているのではなく、やりたいからやっているだけだ。自分を卑下しないことだけに特化しようとしているだけだ。しょうがないから、一目置かれていると考えることにしている。特別扱いされるとなかなか友達ができないのだ。

3.肩書は関係ない。今だけを見ている。

弟と仲が良くてよくおしゃべりをする。弟も無職だが、俺と弟の間には月並みな表現になるが絆がある。生い立ちが一緒だから言語のバランスがよく合う。使っているコードが一緒だ。そこが一番大事で、相手が普段何をやっているのかなんてすこぶるどうでもいい。相手と自分の間にどういった相互作用が起こるか。それだけを見ている。

4.「ちゃんと」の定義が世間とはまるで違う

こういうのちゃんとそれこそ具体的に伝えねばと思う。多分、世間一般(なんてものはないのだが)では「ちゃんとする」というと安定した職業に就いて、結婚して子供を作ってとかある程度の社会性を身に付けることを言うのだと思う。そこがまるで俺とは違う。俺にとっての「ちゃんと」は俺から見て、「ちゃんとしているか」であって、肩書の話などではない。無職だろうが何だろうが、俺から見てちゃんとしていればちゃんとしているねと言う。ゆえに人と同じ言語を使っているという感覚がない。例えば「いい人だね」と言うとき、世間一般の解釈とはまるでかけ離れている言語の使い方だと思っていただければ幸いです。

5.俺たちゲテモノブラザーズ

「俺たちゲテモノだね」と弟と話していた。俺は自分のことを食用のカエルだと思った。カエルの味は鶏肉と変わらないと聞く。でも、誰もその見た目のせいで食べてくれない。見た目というのは外見のことではなく、全体のオーラにまとわりつく印象のことだ。弟曰く自分自身について「俺はゴキブリだね」と言った。「食べることさえできない」。いやサバイバルの達人だったらゴキブリも貴重なタンパク源だから、人によっては食べるんじゃないのと言った。弟は言う。自分が属せる場所なんてあるわけがないと思ってしまうと。めちゃくちゃわかる。俺もそうだ。だから、俺たちは世界に二匹しかいない動物なのかもしれないねと伝えた。これからも生きるということについて一生涯、障害者だ。

6.「女として見ていない」の意味

「女として見ていない」と人が言うとき、どういう意味を孕んでいるのかあまり上手に認識できない。相手は女性で自分にとっては異性だ。もちろん言いたいのは「性欲の対象として見ていない」ということなのだろうが、よくわからない。どんなにひっくり返っても女性は女性で、自分にとっては異性だ。使っているコードが違う気がする。一瞬、そんなこと可能だろうか?と思う。上手く言えないが、すべての根源にあるのは性欲だと思う。どんな行動も衝動も性欲によって行われている気がする。俺はどんな男だって実はかっこいい男が好きだと思っている節がある。女として見ていないと聞くと表面上の理解はできるのだが、根源の否定にも聞こえて、「現状はそう振る舞うことが理想」という話なのではないかと思う。

7.誰だって恋人はできる

弟は恋人がいない。イケメンなんだけど、そもそもで出会いがない環境で過ごしているから、恋人ができようがない。が、確実に俺よりイケメンだ。俺と同じ無職だけど、そういう第三者の目線って実はどうでもよくて、上でも書いたが目の前の相手が今この瞬間に自分に何をもたらしてくれるかというのが何より大事。そばにいるだけで嬉しくなるようなイケメンと一緒に歩いているとウキウキするよね。俺、イケメン連れて歩いてるぜって。弟は「俺になんて彼女はできないよ」と言うが、これは断言しておきたい。誰にだって恋人はできる。自分に足りないものがあるから恋人ができないのではなくて、相手を受け入れるキャパがないから相手を遠ざけてしまうだけだ。だから、目の前に実体(である女性)が現れると逃げてしまう男性がいる。要は意気地なしなのだが、全部ひっくり返して弱いところも全部かわいいところであるぐらいの気概で生きたらいいと思う。

8.家庭にも政治がある

どんな小さな環境にも政治はある。まず最初に人に訪れる政治は家庭じゃないだろうか。家庭は政治で成り立っている。俺は彼女と弟と住んでいるが、この三人の中にも不文律は存在して、言わずもがなという行動ルールみたいなものが明確化はされていないが、潜在的に政治の力として働いていると思っている。そういう意味では、自分の存在自体が政治性を伴っている。この力をあまり侮ってはいけない。個人的な気持ちを述べることは力をつけることだ。新聞の内容や公的な話より、個人的な話をしているときのほうが断然俺は充実感を覚える。力は個人に宿り、政治性として発揮される。「自分は今こう思っている」というのを隠す必要はないんだと思う。

9.力をつけることを他人は嫌う

政治である。ということはつまりパワーバランスがある。力がある者にとって力のない者が力をつけることに対する危機感はある。そこに怯んじゃいけないような気がしている。どんどん発言すること。個人的には最近これをものすごく大事にしている。ハードルを上げずに思ったことを言うだけで、勝手に自信はついていく気がしている。俺は、くさいことを言うが、誰にも負けないでほしいというか勇気付けたいと思っている。特に差別を受ける側に頑張ってもらいたい(すでに頑張っているのはわかっている)というか抵抗してもらいたいというか、潰されないでほしいというか。イラッとすることは多々あるが、イラッとさせないように相手を封じるのではなく、むしろイラッとさせに行ってもいいというか。本物の競争は資本主義で勝ち抜くというより、パワーバランスが揺れ動くことだと思っている。

10.努力している人は迷う

弱い人を愛することはできても、強くなろうとする人をバックアップするのは意外とできない。パワーバランスが崩れるからだ。上から下を見て可哀想だと思って施しをしていれば何も怖くないが、いざ相手が力をつけ始めるとなると急に危機感が芽生えだし、見向きもしなくなるなんてことあるのではないだろうか。フォロワーがいきなり増え、影響力を持ち始めたら、友達と疎遠になったなんて話も聞いた。結局、嫉妬が渦巻いている。

結局、何もしなければ愛される。弟曰く、「俺らは動物園の動物だ。餌やりされて相手が満足する」。言い得て妙だ。無論、そういったレッテルを無意識に貼らずに良くしてくれる人はたくさんいる。が、そうでない人もいる。『虚空の蝶』という曲の歌詞を書いたとき、サビに「月明かり目指して檻の中飛び立つ」というフレーズを入れた。今でもたまに思い出す。何かを始めたとき、檻の中から飛び立っているような感覚になる。

迷う。迷走。というとネガティブな響きを伴うだろうか。俺は、努力している人は迷うと思う。悩むと思う。それは弱いことではない。強くなろうしている何よりもの証拠だ。頑張ると孤独感を覚えたり、耐えがたい苦痛に晒されるときもある。それこそ蔑視の対象にもなる。俺は迷っている人を応援したい。応援なんて言葉はきれいごとに過ぎないだろうが、今はそういう言い方しか思いつかない。だから、書く。とりあえず自分を晒す。一ミリでも影響を与えられたら御の字だ。

『虚空の蝶』


苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。