大海軍史(前編)~ 日本海軍の興亡
今回は、これまでの海軍小話の集大成として、前編では日本海軍が歩んできた歴史を俯瞰し、後編では日本海軍との連続性を持つ海上自衛隊の創設秘話についてお話します。(以下、文字削減のため「である」調で記載)
1 日本海軍の発祥
一般に、江戸末期に創設された幕府海軍が近代日本海軍の発祥と考えられているが、戦前の皇国史観の中では、皇軍が初めて船団を組んだ神武東征の御船出が日本海軍の発祥とされていた。
2 水軍の興り
古墳時代には、兵士を乗せた船団による水上戦闘が始まっている。663年の白村江の戦いでは、1,000隻もの水軍が唐の水軍と海戦を繰り広げた。
10世紀頃から、より洗練された水上の武装集団が日本の歴史に登場する。
特に、1180年の源平合戦で活躍した「村上海賊」 は有名だ。その実態は、いわゆる無秩序な「海賊」というよりは、むしろ秩序を重んじる「水軍」であったようだ。
15世紀、村上水軍が瀬戸内海の西側、塩飽水軍が瀬戸内海の東側を拠点とし、海賊衆が最盛期を迎えた。いずれも、瀬戸内海という特殊な潮流を生み出す環境が、精強な水軍の育成につながった。
1555年の厳島合戦では、村上水軍がおよそ200隻の船団を引き連れて毛利元就の水軍を加勢し、陶晴賢の討伐に寄与した。
1588年、豊臣秀吉は海賊衆はやがて脅威になると考え、海賊禁止令を発布した。やがて、海賊衆は歴史の表舞台から姿を消していく。
3 鎖国に伴う大船不在
1603年に江戸幕府が成立し、鎖国の時代が訪れる。1609年の幕府による大船建造の禁、その後、1635年に改定された大船建造禁止令により、日本には約250年にわたる大船不在のときが訪れた。
4 黒船来航
18世紀後半から異国船の目撃例が増えはじめ、アメリカ海軍のペリー艦隊が姿を現したのは、1853年7月のことだった。
ペリー艦隊は琉球を経て、7月8日、浦賀沖に到着。幕府に開国を迫った。
初めて見る黒塗りの船体や、煙突からもうもうと煙を上げながら外輪と蒸気機関で航行する様をみて、当時の日本人は「黒船」と呼び恐れ慄いた。
この事件が、日本が本格的な近代海軍を創るきっかけとなったのである。
幕府は近代海軍を創るために大船建造禁止令を解禁し、浦賀に造船所を設立。1854年6月に日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を竣工させた。
5 幕府海軍の創設
幕末の軍艦奉行・勝海舟は、1855年10月に長崎に海軍伝習所を開設し、自らが初期の伝習生となって、その後の幕府海軍を牽引した。
一方、古来から琉球王国や南西諸島との海路に恵まれていた薩摩藩が、幕府海軍の創設に貢献した。
1855年に竣工した島津斉彬公の琉球大砲船は、後に「昇平丸」と命名され、幕府に献上された。
6 日章旗の誕生
日米和親条約締結後、幕府は日本惣船印、つまり、 外国船と区別する全国共通の船舶旗を制定する必要から、この昇平丸を江戸に回航する際、日本史上初めて日の丸が船尾に掲揚された。
1859年、幕府が「日章旗を御国総標にする」という触れ書きを出し、日の丸が事実上の国旗としての地位を確立した。
7 初の太平洋横断に成功
1860年2月、日米修好通商条約の批准書交換のため、勝海舟やジョン万次郎、福沢諭吉らを乗せた「咸臨丸」が日本史上初の太平洋横断に成功し、37日間の航海ののちサンフランシスコに到達した。
「咸臨丸」の乗員50名のうち、35名は塩飽水軍の末裔で、勝海舟は失われた250年の回復を試みた。
8 海兵養成機関の設立
1864年、勝海舟の発案により、日本初の海軍士官養成機関として神戸海軍操練所が創設され、勝海舟に弟子入りして開国派に転向した坂本龍馬が、ここで学んだ。
その後、1869年に明治新政府が東京・築地に海軍操練所を創設し、1876年には海軍兵学校に改称された。
1888年には江田島移転となり、以来、名だたる多くの海軍将校を世に送り出し、一時期は、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスと並ぶ世界三大兵学校と称えられた。
9 東洋一の軍港へ
一方、造船については幕府がフランス人技師のフランソア・レオンス・ヴェルニー を首長として、幕府は1865年11月に「横須賀製鉄所」を起工した。
1868年に明治政府に引き継がれ、1872年に海軍省が東京築地に設置されると、ここに大日本帝国海軍が誕生した。
1871年2月、横須賀製鉄所で日本初の石造りのドライドック(現・第1号ドック)が完成すると、4月に横須賀製鉄所は「横須賀造船所」に改称。
1884年に海軍が横須賀に鎮守府を置くと、横須賀造船所は鎮守府直轄の「横須賀海軍造船所」に改められた。
海軍の国産艦も、次第に増えていった。
10 帝国海軍の拠点を確立
以降、1889年に呉と佐世保、そして1901年に舞鶴でも鎮守府が開庁。横須賀で得られた知識や技術が継承され、1903年には、各地の造船所/造船部は、一斉に「海軍工廠」に改称された。
こうして、現在の海上自衛隊に至る日本海軍の原型が出来上がった。
11 名参謀が生まれる
「智謀湧如」(ちぼうわくがごとし)と称賛された名参謀・秋山真之は、先述のとおり、江田島の海軍兵学校時代に厳島合戦を研究するなど、若い頃から優れた戦術家としての頭角を表し、1890年に海軍兵学校を首席で卒業。
卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗り組み、航海実習に参加した。
その後、海軍の派遣留学生に選ばれた真之は、1897年に戦略・戦術を研究課題として渡米し、米海軍大学校の校長経験者で、「海上権力史論」(1890年刊行)の著者であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、海軍の戦略・戦術研究に明け暮れた。
翌1898年、米西戦争におけるサンチャゴ港閉塞作戦を視察し、この経験が、後の日露戦争における旅順港閉塞作戦にも生かされた。
日露戦争時、真之は作戦参謀として戦艦「三笠」に乗り組み、日本海海戦で大きな役割を果たすことになる。
12 名提督が現る
1905年、日露戦争が勃発。東郷平八郎という名提督が座乗する戦艦「三笠」と連合艦隊は、日本海でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ。
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いよいよバルチック艦隊との決戦に向かう時、真之が起案した電文が大本営に届いた。「作戦は主力艦のみで行う」ことを、短文で伝えた。
東郷は、艦隊に対し「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と伝えてZ旗を掲げ、全軍の士気を鼓舞した。
「Z」の一文字だけで、これが国の命運を賭けた背水の陣であることを各員に知らしめた。
決戦に際し、連合艦隊は予め練り上げた丁字戦法を実行に移した。会敵後、反航ですれ違うように見せかけて、途中から敵の針路を遮るように敵前で大回頭(いわゆる「東郷ターン」)を行い、バルチック艦隊を撃滅する。
そして、2日間に及んだ日本海海戦は、史上まれにみる日本側の圧勝で終わり、世界中を驚嘆させた。
この勝利は、決して大砲の性能や兵力の差ではなく、帝国海軍の優れた戦術によるものだった。
厳島合戦の自主研究、マハンに師事して得た知識や教訓等、いわば真之流・戦術研究が結実したもので、丁字戦法は、真之の故郷、伊予の海を支配した村上水軍からヒントを得たとも言われている。
こうして東郷は、ロシアから日本を守り、白人至上主義に一石を投じ、植民地支配からアジアを解放し、多くの親日国を生み出したヒーローとなった。
13 大艦巨砲時代の幕あけ
日露戦争にける日本海海戦での歴史的な勝利は、世界の海軍にも大きな影響を及ぼし、特に米英などの主要海軍国は、戦艦の大型化に力を入れ始めた。
そのような中、1906年にイギリスが30センチ砲を10門搭載したドレッドノート級を完成させる。
これが大艦巨砲時代の幕あけとなって、各国は競って巨砲を備えた大型戦艦を造り始めた。
14 超弩級戦艦の誕生
1920年11月、日本も史上初めて41センチ砲を搭載する超弩級戦艦「長門」及びその2番艦「陸奥」を建造して世界を驚かせた。
このことは、列強各国の警戒心を高め、戦艦建造が各国の国家予算を圧迫していたことと相まって、軍縮条約締結へと向かわせた。
15 世界三大海軍へ
第1次世界大戦への反省から、1920年に世界初の国際的な平和機構として国際連盟が発足。
帝国海軍は、軍艦保有トン数でも世界第3位となり、米・英海軍と肩を並べる「世界三大海軍」と称され、ひとときの平和と栄光のときを迎える。
ワシントン軍縮会議(1921年)及びロンドン海軍軍縮会議(1930年)では、大日本帝国海軍を脅威とみた欧米により、主力艦の総トン数が米英比6割に制限され、各国の新型艦の建造を1936年末まで禁じられた。
しかし、それにより41センチ砲を有する戦艦は下表の7隻に制限される結果となり、これらは「世界のビッグ7」と呼ばれるようになった。
16 巨大戦艦建造へ
そのような中、帝国海軍では、ロンドン海軍軍縮条約が失効する3年前の1933年には、既に46センチ砲を搭載する巨大戦艦の建造案が海軍上層部に提言されていた。
ロンドン海軍軍縮条約失効後の1937年8⽉、海軍大臣だった⽶内光政・海軍大将が、正式に46センチ砲を搭載する巨大戦艦の建造を命じ、11⽉には、戦艦「⻑⾨」や空母「⾚城」など、数々の大型艦を輩出してきた呉海軍工廠において起⼯された。
呉海軍工廠は、創設から僅か30余年で巨大戦艦を創り上げた。
17 第二次世界大戦へ
1941年11月、山本五十六・連合艦隊司令長官をはじめとする首脳陣が岩国に集い、真珠湾攻撃に関する作戦会議を開いた。
同年12月2日、長門に座乗する連合艦隊司令長官、山本五十六・海軍大将は、岩国湾から「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電を打電。
この通信は、佐世保の針尾送信所を経由して真珠湾攻撃部隊に送信され、12月8日には柱島泊地の長門艦上で真珠湾攻撃成功の電文を受け取った。
日本は「空母機動部隊による攻撃」という新たな戦法を生み、その有用性を世界に知らしめた。
しかし、1942年のミッドウェー海戦での大敗を境に劣勢にたたされ、次第に戦力が消耗してレイテ沖海戦で壊滅状態となる。
18 特攻作戦
大戦後期、戦況が悪化する中で、空と海から特攻作戦が開始された。
そのひとつ、鹿児島県大隅半島に位置する鹿屋では、1945年2月、特攻を指揮する第五航空艦隊の司令部が新編され、鹿屋基地からは日本で最も多い908名の特攻隊員が出撃し戦死した。
1944年9月、九三式酸素魚雷の発射試験場があった大津島に、人間魚雷「回天」の訓練基地が開設され、戦闘機の6倍に及ぶ1.55トンもの炸薬が搭載された。
1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると、戦艦「大和」にも事実上の「水上特攻」が令された。
第二艦隊司令長官だった伊藤整一・海軍中将は、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介・海軍中将から「一億総特攻の魁(さきがけ)となれ」と言われて「死に場所を与えられた」ことを悟った。
19 原爆輸送船に一矢報いた潜水艦
終戦間際の1945年8月、アメリカは広島と長崎に原爆を投下。日本への原子爆弾輸送に従事した米艦艇に一矢報いた潜水艦があった。
「伊58潜」の艦長だった橋本以行・海軍少佐は、戦後、ワシントンで軍法会議にかけられた戦艦「インディアナポリス」の艦長・マクベイ大佐を擁護し、1990年には、ホノルルで当時のインディアナポリス乗組員らと交流するなど、困難を乗り越えて互いを讃えあった。
大和魂やサムライ・スピリットというものは、広義の日本海軍の連綿とした伝統の中に根付いていた証であろう。
20 帝国海軍の解体
1945年8月15日、昭和天皇の宣言で終戦となる。8月30日に約2万の米英軍が横須賀に上陸し、やがて帝国海軍は解体された。
(後編へ続く)