見出し画像

村上海賊と大山祇神社

前回、秋山真之が村上海賊から日本海海戦における丁字戦法のヒントを得たという話をしました。その村上海賊とは、一体、何者だったのでしょうか。
 
今回は、その村上海賊と彼らが崇めた大山祇神社についてご紹介致します。
 
海賊なのか水軍なのか
1586年、布教活動のため来日していたポルトガルの宣教師ルイス・フロイス(注1) は、瀬戸内海を訪れた時、彼らを「日本最大の海賊」と呼びました。
 
(注1) キリスト教カトリック教会の「イエズス会」に所属する司祭で、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉から許可を得て布教活動に従事した
 
しかし、村上海賊にはいくつもの顔がありました(後述)。実態は海の上で無秩序に略奪を働く海賊(Pirates)ではなく、掟に基づき統制され、時に大名にも仕える水軍(Naval Forces)だったのです(注:以下、本稿では「村上海賊」と表記)。

活動拠点となった芸予諸島
広島(安芸)と愛媛(伊予)の間に点在する大小の島々は、芸予諸島と呼ばれています。
 
この海域は、昔から潮流(注2) が速いことで知られ、これらの海域を船が安全に通航するには、経験に裏打ちされた知識や技術が必要になります。
 
(注2) 島々に囲まれた瀬戸内海では、潮汐の高さが東の淡路島で3m、西の芸予諸島で4mにもなり、この高低差が1日4回(2往復)、最も速い場所で10ノットに及ぶ潮流を生む
 
こうした瀬戸内海の特性を理解し、中でも最も通航が困難な場所にある芸予諸島の戦略的価値にいち早く目を付けて、ここを拠点として発展したのが村上海賊でした。

村上海賊の拠点
(出展:日本遺産 - 村上海賊

村上海賊の興り
村上海賊が歴史に登場するのは、瀬戸内海が西日本の経済と交通の大動脈となっていた平安時代中期のことで、939年の藤原純友の乱(注3) や、1180年の源平合戦などにその存在が確認されています。
 
(注3) 伊予の国司であった藤原純友が海賊を率いて朝廷に蜂起したが、これを迎え討つ河野好方率いる300隻が、村上海賊の案内で純友軍を討伐した
 
村上海賊の三大拠点
室町時代の1419年頃、村上海賊は三家に別れ、それぞれ因島、能島、来島を拠点としました。

村上海賊三家の代表的人物

最盛期における6つの顔
① 水先案内人
この海域を安全に通航するための知識・技術を使って、通航する船の水先案内を行っていました。 
 
② 水上警護人
要すれば、通航する船が他の海賊衆から襲撃されないように警護していました(そのため、警固衆(けごしゅう)とも呼ばれた)。
 
水先案内や警護の見返りとして、帆別銭(ほべちせん)という対価(積み荷の1割程度)を徴集していました。
 
③ 傭 兵
大名から要請があれば、契約を取り交わして合戦にも加わりました。しかし、村上海賊は、特定の大名の臣下となって仕えることは殆どなく、その時々の情勢次第で柔軟に対応していたようです。
 
④ 商売人
村上海賊の拠点は、中国産の陶磁器や国内産の焼き物などを一時的に保管する物流基地としても機能しました。

⑤ 漁 師
瀬戸内海の新鮮な魚介類を扱う漁業者(注4) でもありました。時には、新鮮な魚介類をお歳暮として大名に送り届けたそうです。
 
(注4) 海の幸を豪快に使った「水軍鍋」と呼ばれる郷土料理が、今に受け継がれている

⑥ 文化人
時には、優雅に香や茶や連歌を嗜む顔を覗かせました。大山祇神社に奉納された連歌からは、彼らの高い教養と文化力をうかがい知ることができます。

武士集団だった村上海賊 - 因島水軍城
(Photo by ISSA)

村上海賊の最盛期
そして、村上一族は村上武吉の時代に最盛期を迎えます。

左:村上海賊ミュージアム
中:村上武吉      
右:村上景親      
(Photo by ISSA)

1555年の厳島合戦では、およそ200隻の船団を引き連れて毛利元就の水軍を加勢し、陶晴賢の討伐に貢献しました(細部は、前作「秋山真之と名参謀の資質」を参照)。
 
また、村上武吉は和田竜の「村上海賊の娘」でも有名です。

武吉は、来島の村上通康の娘と結婚して塩飽(しわく)水軍とも連携し、その勢力は北九州にまで及んでいたようです。

大阿武船(又は大安宅船) - 因島水軍城
(Photo by ISSA)

写真は、当時、村上海賊が有していた大阿武船/大安宅船(おおあたけぶね)の模型です。重さ200t、全長26m、定員170人であり、当時としてはかなり大きな船であることが分かります。
 
村上海賊の衰退
1588年、豊臣秀吉が「刀狩り」と同時に「海賊禁止令」を発布し、海賊衆は豊臣の大名又は家臣になるか、武装放棄して百姓になることを迫られます。
 
そして、村上海賊をはじめとする日本の海賊衆は、次第にその姿を消していくことになったのです。

大山祇神社
日本総鎮守(日本すべての氏神さま)とされている大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)がある大三島は、古くは「御島」と呼ばれる神の島です。
 
神武天皇の東征にさきがけて四国に渡った小千命(おちのみこと)が「神の地」と定めたのがこの神社の始まりといわれています。
 
御祭神は、大山積神(おおやまづみのかみ)(注5) で、古来から海の安全を守る神としての信仰が厚く、古くは村上一族をはじめとする海賊衆、水軍、海軍関係者から、現代の海上自衛隊や海上保安庁などの関係者がここに訪れ、海の安全や武運を祈願してきました。
 
(注5) 天照大御神の兄神。また、天孫降臨した瓊瓊杵尊の妃・木花咲耶姫の父でもある

左上・右上・左下:日本総鎮守・大山祇神社   
右下:樹齢2,600年といわれる小千命御手植えの楠
(Photo by ISSA)

広大な敷地の神社には国宝、重文の指定を受けた武具類の8割を保存する国宝館海事博物館が隣接しています。

左上:国宝・重要文化財を保存する国宝館
左下:大三島海事博物館        
右:瀬戸内のジャンヌ・ダルク「鶴姫」 
(Photo by ISSA)

海事博物館には、生物学者でもあった昭和天皇が海洋生物の研究に使った「葉山丸」と、様々な生物の標本が展示されています。
 
葉山丸は、1934年、昭和天皇の「御採集船」として横須賀海軍工廠で建造されました。一時期は、実際に昭和天皇がこの船を採集に使用されました。
 
「葉山丸」の船歴
1936年、御採集船として運用開始
1944年、訓練船として江田島・海軍兵学校へ
1945年、大山祇神社に保管依頼
1946年、豪軍が接収
1949年、海保に移転
1956年、御採集船としての任務終了
1967年、大山祇神社に保管
1976年、海保船籍から削除
 
上関城跡(現・城山歴史公園)
最近、原発の「中間貯蔵施設」で話題になっている山口県の上関町にも村上海賊の拠点がありました。
 
彼らが城を構えた場所は、瀬戸内海における海上交通の西端にあたる上関海峡を見張る上で絶好の場所であり、そういう意味でも、彼らは「海の関所」を押さえるという嗅覚に優れていたんだなあと、そう思いました。

上盛山展望台から上関を望む
(Photo by ISSA)

1551年、陶晴賢の船団が彼らの掟を無視して上関を強行突破しましたが、早船を出して芸予諸島の本拠に連絡し、この船団を安芸蒲刈の瀬戸で迎撃しています。
 
おまけ
その安芸蒲刈方面には、現在、呉方面から大三島方面へと伸びる島々を複数の橋でつなぐ「安芸灘とびしま海道」があります。
 
風光明媚で歴史的建造物もあり、穴場的なドライビング・スポットになっています。

左上:蒲刈大橋            
右上:世界遺産の「松濤園」      
左下:伝統的建造物群保存地区「御手洗」
右下:日本遺産登録の碑        
(Photo by ISSA)

さて、恒例のグルメのご紹介ですが、瀬戸内の島々は、とにかく柑橘系の素材を用いたお食事やデザートが多いです。
 
何を食べても飽きが来ない、さっぱりした風味がほどよいですね😋

左上:塩レモン唐揚丼 - しまなみロマン 
右上:因島はっさくドーナツ      
左下:因島のはっさくゼリー      
中下:レモンソフト - 多々羅しまなみ公園
右下:瀬戸内レモンケーキ「島ごころ」 
(Photo by ISSA)

おわりに
江戸幕府による1609年の「大船建造の禁」、その後、1635年に改定された「大船建造禁止令」から、1853年のペリー来航に伴う同禁止令の解禁に至るまで、日本には200年以上に及ぶ水軍の空白期間がありました。
 
そのため、幕末の軍艦奉行・勝海舟は、村上武吉が連携していた塩飽水軍の末裔、複数名を咸臨丸に乗り組ませるなど、失われた200数十年の回復を試ました。
 
また、秋山真之が村上海賊から戦術・戦法のヒントを得たように、村上海賊の造船技術、操船技術、水上戦闘術、水兵統率術などは、当然、その後の日本海軍による調査研究の対象となりました。
 
そういう意味では、現代に至る日本の海軍力、その一部は村上海賊にルーツがあると言っても過言ではないのかもしれません。
 
この程、その端くれとして日本創世記に遡る神の島を訪れ、日本総鎮守たる大山積神に向き合い、武運長久(つまり、恒久的な日本の平和と繁栄)を祈願することが出来ました。
 
そして、この旅を通じて、私は悠久の歴史との繋がりを感じるとともに守るべきこの日本という国の美しさや、日本人としての誇り、そして海軍が担うべき使命というものを再確認することができたように思います🍀